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 ほとんどの兵には、一瞬白い閃光が走り抜けたようにしか見えなかった。事あるごとに響く勝往の大砲のような声は聞こえても、見えぬものに対する指示など出来るはずもなく、兵達は誰の命令も得られないまま首を傾げただただ立ち尽くすばかりだった。
 白牙は目にも留まらぬ速さで戦場を駆け抜けると、そのまま矢のような勢いで閉じたばかりの正門へ突撃した。轟音の後、正門の真ん中には小さな穴が空く。それにより、何事かとてつもない異変が起こったと初めて兵達に緊張が走った。
「脆いもんだね」
 正門を抜けた白牙は肩をすくめて自分が空けた正門の穴を見ながら笑みを浮かべた。江戸城の正門は大筒にすら耐え得る強度を誇っている。白牙はそれを体当たりで突き破ってしまったのだ。
「さてと、本丸はこっちかな」
 白牙はのんびりとした態度できょろきょろと周囲を見回し歩き始める。江戸城の敷地内へ無断で侵入するなど、自ら死地へ入る事と同じで無謀な行いである。にも拘らず余裕すら感じられるこの態度は、正に大胆不敵としか言いようが無い。
 正門の異常は打ち抜いた時の轟音もあってか、物見の伝令がなくとも即座に各隊へ知れ渡った。たちまち白牙は前後から近隣に詰めていた無数の兵に挟まれる。その上、左右の塀の上には予め正門付近へ待機していた酒井の鉄砲隊が集結していた。
「動くな、妖魔め」
 塀の上に立つのは酒井狂次だった。酒井鉄砲隊の無数の銃口が眼下の白牙に定められている。
「徳川の城に入り込んでおいて、生きて帰られるとは思うな」
「馬鹿な連中だ。いちいち格好つけてないでさっさと撃っちゃえば良かったのに」
「ならば見事逃げ果せてみせるんだな。撃て!」
 狂次の号令と共に鉄砲隊が一斉に引き金を引いた。だが、
「うわあっ!?」
「ぎゃああああ!」
 突然の爆発音と悲鳴が次々と響き渡る。白牙が撃ち抜かれる光景ばかりを想像していた狂次は、驚きのあまり唖然としながら鉄砲隊を見渡した。鉄砲隊はいずれも顔を押さえてはその場に屈み込みうめき声を上げている。鉄砲からは黒い煙が立ちこめており、火薬が爆発した事は間違い無さそうに見える。
「まさか……暴発?」
 鉄砲が暴発した事故などこれまで数えるほどしか例が無い。いずれも使い方に誤りがあった事が原因であり、日々訓練を重ねている酒井の鉄砲隊に限ってそんな事は有り得ない。ましてや、全員が一斉に暴発させるなど意図的にでも不可能である。狂次の頭にはそんな理屈ばかりが浮かび、すっかり指揮能力を失っていた。
「ほら、逃げ果せたけど。次は?」
 戸惑う狂次の前に現れる白牙。その足は地面を離れ体が宙に浮いている。白牙の周囲には小気味良い音を立てる小さな光が幾つも浮かんでいた。これが鉄砲の火薬を暴発させたものの正体なのだろうか。
「おのれ、下郎めが!」
 狂次は咄嗟に腰の刀に手をかける。しかし、それよりも早く白牙の人差し指が狂次の胸を突いた。鎧に覆われた狂次の体は指で突いたぐらいではどうにもならない。だが、次の瞬間白牙の指先から白い閃光が走り狂次の体を貫いた。
「なっ……!?」
 一体何が起こったのか理解出来ぬまま、狂次は驚愕の表情と共に塀から落ちた。凄まじい激痛が全身に走り体の自由が奪われる。それは狂次がかつて味わったことの無い感覚だった。
「筆を刀に持ち替えたって駄目なものは駄目さ、蒲柳侍は」
 背から地面に落ち四肢を投げ出したまま動かない狂次に、白牙はそう冷ややかに笑う。
「さてと、本丸は。ああ、こっちの方だね」
 再び白牙の体が真っ白な閃光に包まれる。そのまま矢のような速さで取り囲む兵を突破する。
「うわっと」
 突然、白牙は何でもない塀の前で立ち止まった。首を傾げながら塀に触れてみる。すると、小気味良い破裂音と共に白牙の手は弾き飛ばされた。白牙の手は焼け爛れている。
「紀家の奴、何か仕掛けてるな。どうりで城が良く見えない訳だよ。ここに来てから調子も悪いし、相変わらず狡い事ばかり考え付くものだね」
 溜息をついた白牙は塀を乗り越える事を諦め道なりに進む事にした。今の白牙には塀は見えても敷地内の景色は所々にしか見えていなかったが、何故か道に迷う事無く最短の順路で本丸までやってきた。白牙は何かを感じ取りながら進んでいる様子である。
「おうおう、凄い歓迎ぶりだ」
 程なく辿り付いた本丸には無数の兵が大挙していた。四種類の家紋の旗が立っている事から、幾つかの部隊が合流した連合部隊である事が見て取れる。
「来おったか、妖魔の王め!」
 旗本陣が何名か手勢を率いている中、その先頭に立っていたのは一人の老将だった。体はか細く明らかに武芸とは縁が無い。そんな人間が何故この大部隊の先頭に立っているのか、白牙は不思議そうに見つめていた。そしてその老将は腰の刀を抜き放ち頭上へ掲げると、声高に叫ぶ。
「我が名は榊原家当主、榊原仁之真! これ以上は進ませぬ!」