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 仁之介と勝往は残った兵をかき集め白牙の後を追っていた。
「奴め、やはり上様の御命を奪うつもりか」
「急ぎましょうぞ、勝往殿。戦況は危ういでござる」
 あれだけ優勢だったはずの徳川軍が、白牙一人によって一気に劣勢へ追いやられた。まさに想定外の出来事である。
 白牙一人による被害は甚大だった。特に軍の采配を揮う酒井狂次が討たれてしまった事が最も大きい。指揮系統は完全に混乱を来たしている。各隊がそれぞれの裁量で動かねばならず、最善の判断をするには横の情報連携を密にしなければならない。だが、布陣を乱されている今は各隊が孤立しているに等しい状況だ。もはや体勢を立て直す暇も惜しい。
「おお、蒼十朗殿!」
 不意に目の前を駆け抜けようとする蒼十朗の姿が現れた。あれから自らの手勢放って一人戦っていたのか、随分と返り血の量が増えている。顔見知りでなければ思わず身構えてしまいそうなおどろおどろしい姿だ。
「敵は本丸ぞ。お二方、急がれよ」
 蒼十朗は半笑いの不気味な表情で駆ける。明らかに精神が高揚し性格が変貌してしまっている。まるで野生動物のような表情に、一同は思わず蒼十朗から一歩退く。だが蒼十朗は構わず本丸を目指して駆けていき、仁之介達もその後を追った。
「本丸の戦況は聞いているか?」
「物見の話では、平岩、安藤、奥平が陣取っているとか。それから榊原も出て指揮していると」
「榊原? 蒼十朗殿、それはどういう意味で?」
「そなたの御父上、榊原家の当主が出ております。まったく、素人が戦場に出るなどと文官のする事は理解に苦しみますな」
 仁之介は驚きのあまり表情を青褪めた。途中から挟んだ蒼十朗の軽口も耳に届いていない。
 仁之介の父である仁之真は、生来の病弱で公務もほとんど務める事が出来なかった。仁之介は嫡男という立場から代役として江戸へ赴いている。肩書きは代行とは言っても、実質は榊原家の当主である。本来ならば代役で無理に通さずとも仁之真が隠居し仁之介へ家督を譲るべき所なのだが、華虎が仁之介の未熟さを理由に承知していないため、このような構図になっている。仁之真は武芸の嗜みがあるどころか、槍一つ満足に奮う事が出来ない。徳川の危機に榊原家の当主が出ねばならぬ以上は仕方の無いことだが、前線に立って戦うのは自分の役目であると仁之介は考えている。それだけに、仁之真が早まった真似をしてはいまいか不安に締め付けられる思いだった。
 だがその時、不意に夜空を切り裂くほどの激しい閃光が走り、本丸へ向けてひた駆ける侍達の目を眩ませた。思わず立ち止まった一同が閃光の先を確かめると、更にもう一度、激しく閃光が天へ駆け登った。それは全く音の無い白く輝く稲妻だった。そのあまりに異様で禍々しい光を、一同のほとんどが既に目にしている。
「あの方角は本丸でござる!」
「白牙め、既に本丸で……!」
 仁之介だけでなく蒼十朗を除いた全ての者が、脳裏に不吉な予感を募らせていた。あの白い稲妻が天災ではない、もっと禍々しいものである事は言われなくとも肌で感じられる。一体本丸で何が起こっているかなど、わざわざ改めて考える事ではなかった。白牙は妖魔の王、対峙するのは徳川家に仕える屈強な家臣が四家。そしてあの白い稲妻。刀を交えぬはずがないのだ。
 本丸にて待ち構えているのは、いずれも劣らぬ屈強な旗本ばかり。しかし問題は、白牙の異様な力だ。未だ直接事を交えてはいないものの、頑丈な正門を打ち破り、酒井の鉄砲隊を難なく退けてしまったことから、その強さはこれまでに戦ってきた妖魔の比ではないと推し量る事が出来る。どれだけ持ち堪えられるかよりも、如何に自分達が一刻も早く馳せ参じられるか、そればかりを考えた。
 だが、現実は一同の不安を遥かに上回っていた。
「一足遅かったか。どうやら御殿に入り込まれたようだ」
 静まり返った本丸の入り口で蒼十朗は舌打ちし、すぐさま脇目も振らず本丸御殿へと駆けて行った。
 仁之介達が辿り着いた時、本丸は既に変わり果てていた。地面には焦げた屍がびっしりと転がり、本丸の敷地を黒く埋め尽くしている。芝も植木も見境無く稲妻に打たれたのか、あの優雅だった庭の景色はすっかりと平坦な荒野と化している。仮に屋敷が燃えたとしても、焼け跡には屍以外にも残るものがある。このように何もかもを焼き尽くす方法など考えもつかず、まさに悪夢のような光景であるとしか言いようが無い。
「あれは……!」
 不意に仁之介は屍の中に見覚えのある何かを見つけて飛び出した。
 それは、具足をつけたまま突き上げた右腕だった。まるで何かを掴むように空へ向かって半分開かれている手のひらのすぐ隣に、真っ黒に焼け焦げたぼろぼろの刀が刺さっている。まるで落とした刀を拾おうとしているかのような、そんな様子に見える。
 仁之介は青褪めた顔のまま、右腕を突き上げる屍をそっと抱え上げる。まとっているのは極めて薄く軽い鎧で、真っ黒に焼き焦げてはいるものの足軽がつけるような安い具足ではない事が焼けていない部分の手触りで分かった。
 そして、辛うじて判別出来るほどに残った顔を確かめる。
「……父上」
 その屍は、既に事切れた後の仁之真だった。思わず唇を震わせながら呼びかけるものの、息の無い人間が言葉を発する事は無い。
 仁之介のただならぬ様子に、榊原家の家臣は一斉にそこへ駆けつけて膝をつき主君の亡骸を確かめる。何かの勘違いと思いたかったが、自らの君主を見誤るはずも無かった。遠目から見ていた勝往も無念の表情を浮かべていた。まさか、これだけ屈強な軍団をたった一人で殲滅してしまうとは。俄には信じ難い光景だが、事実は受け止めるしかない。
 ふと勝往は本丸の塀が視線が止まった。塀は変わらず白い腹をさらしている。しかしそれは明らかに不自然である。地面すら焼け焦げるほどの稲妻に晒されていながら、塀だけが全く無傷で済むというのは道理に合わない。しかし、今はそんな事を考えている場合ではない。一刻も早く白牙を止めなければ、徳川家存亡の危機となる。
「仁之介殿」
 肩を震わせる仁之介の背後から、そっと勝往が肩を叩いた。すると仁之介はさほど名残惜しむ様子を見せず、すぐさま立ち上がった。
「分かっております、急ぎましょうぞ。皆はここで妖魔が入り込まぬよう固めておくのだ」
 何時に無く淡々とした口調で言い渡すと、すぐさま本丸御殿へと向かった。その後を追う勝往。
「白牙め……許さんッ!」
 直後、仁之介が怒りも露に張り裂けんばかりの声で叫んだ。勝往は、これほど感情的になった仁之介の声を聞くのは初めてだった。