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 白牙は未だ松之廊下を歩いていた。
 敷地内へ入り込んだ時から薄々感じてはいたが、城に入ってから体の異変が顕著になっている。まるで力が漏れ出ているかのように急速に体力が失われている。外にいた時はまだ我慢出来る程度だったが、城内に入ってからは一層強まっている。正門や城壁を攻める時もそうだったが、紀家は妖魔に対して効果を及ぼす何かを施しているようである。
「曲者ッ! 出会え出会え!」
「おのれ! 外の者は何をしておるか!」
 さすがに堂々と正面から乗り込んでは立ち向かって来る者を片っ端から焼き殺していただけに、騒ぎを聞きつけた侍達が後から後から刀を抜き押し寄せてくる。白牙にとって人間は一触れで絶命させられる脆弱な存在であるにも関わらず、侍はそれでも立ち向かって来る。実力差は歴然としているというのに立ち向かってくる侍は、白牙にとって非常に理解に苦しい。
「ああ、もう。鬱陶しい塵芥め……!」
 苛立ちながら白牙は侍達に向かって手のひらを開く。周囲は瞬く間に眩い白の稲妻に包み込まれ、侍達は悲鳴をあげる暇も無く消し炭と化してしまった。だが白牙は苛立ちながらも息苦しそうに溜息を漏らす。肩を小刻みに揺らしながら息をつき、表情にも随分余裕が無い。
「紀家め……ここまで執拗とは。これはもう賞賛すらしたくなるよ」
 時刻を告げる鐘の音が聞こえて来た。時刻は八ツ半。あと半刻も経てば日が昇り始める。逆らう気力を根元から断つため城をもう少し荒らしておくつもりだったが、もはや時間切れである。
「夜明けも近い……か。もう少しやりたかったけど、さすがに誤算だったね。まさか城内がこんなにきついなんて」
 溜息をついて気持ちを静めると、苛立ちから諦めへ表情を変える。これ以上無理を押しても何の得も無い。そもそも当初の目的は江戸城を荒らす事にあったのだから、此処はもう素直に退くのが賢明である。
 廊下から外の白州へと降りる。途端に全身に圧し掛かっていた重さが嘘のように消え失せた。本調子という訳ではないが、城内にいるよりは遥かに気分は楽である。やはり紀家が施した仕掛けは、城内の方が念入りに施されていると思って間違いは無い。
 その時だった。ふと何かに気付き目を見開いた白牙は、振り向きざまに手のひらを広げてかざす。それとほぼ同時に鋼の塊が白牙を襲った。襲い掛かってきた斬馬刀をかざした手のひらで受け止める白牙、その先にある蒼十朗の歯を剥いた表情に瞳孔を広げる。蒼十朗は全身の力を込めて斬馬刀を押し込んでいく。しかし白牙は一歩後退りながらも、受け止めた斬馬刀ごと蒼十朗を強引に押し返した。子供とは思えぬ意外な腕力に、蒼十朗は驚きよりもまず歓喜が先行した。
「見つけたぞ、大将首」
「後ろからいきなり襲い掛かるなんて誰かと思ったら、戦狂いの井伊か。太平の世だというのに、紀家も剣難なものを囲っているものだね」
「されど、貴様のような輩のおかげで埃を被らずに済む」
 不敵に微笑む蒼十朗は、斬馬刀を振り回しながら白牙へ襲い掛かる。白牙も同じように笑みを浮かべながらも、獣のような俊敏性を誇る蒼十朗を滑るような動きで翻弄する。蒼十朗は幾度と無く白牙へ向かって行っては斬馬刀を振り回すのだが、白牙には切っ先すら掠りもしない。手応えの無い相手に蒼十朗は、まるで空気を相手にしているかのような気持ちさせられる。
「戦狂い、今宵はもうお開きだ。そろそろ日が昇っちゃうからね。続きは次の望月にでもしよう」
「むざむざ逃すと思うか」
 唐突に空を見上げながら立ち止まる白牙。しかし蒼十朗はたじろぐ事もせず、白牙の頭上へ迷わず斬馬刀を振り下ろす。白牙はおもむろにかざした手のひらでその一撃を受け止めると、目前の蒼十朗へ格の違いを見せ付けるかのような見下した嘲笑を浮かべる。だが蒼十朗は受け止められている事にも構わず体重をかけて斬馬刀を押し込む。全身の力を用いて圧し斬ろうとする蒼十朗、けれど白牙は余裕に満ちた涼しい表情を浮かべている。
「次に来るまで、少しは知恵をつけるんだね」
 そう笑ったと思った瞬間、蒼十朗は白い稲妻を脳天に受けた。体を絞り上げられる激痛に、叫び声をあげるどころか肺の空気を無理やり吐き出さされる圧迫感。稲妻に焼かれるというよりも、全身を針で穿たれるようか感覚だった。あらゆる痛みにも怯まない蒼十朗ですら、白牙の白い稲妻はまるで耐える事が出来なかった。蒼十朗の鎧は一瞬で真っ黒に燃え上がり、斬馬刀は白牙の手に触れている僅かな部分を残して崩れ落ちてしまう。そのまま蒼十朗は白目を剥きながら倒れた。意識はとうに失っているものの未だ稲妻の余韻が残っているのか、陸に打ち上げられた魚のようにびくびくと痙攣している。白牙は侮蔑に満ちた笑みでそれを見下ろした。
「白牙ッ!」
 そこへ張り裂けんばかりに叫びながら侍が疾走してくる。叫んだのは怒りも露にした仁之介、そしてその後を勝往が続いている。
「負け犬の榊原に、木偶の本多か。これはこれは、お揃いで」
「黙れ! 父の無念、ここで晴らせて戴く!」
 仁之介は刀を腰溜めに構えながら猛然と白牙へ向かっていった。そんな仁之介を前に白牙は、無造作に手のひらを開いて見せる。次の瞬間、仁之介は白い稲妻へ打たれ前のめりになりながら転倒した。すぐさま地面に手をつき体を起こそうとするものの、思うように力が入らず意気込みだけが空回りする。
「熱くならないでよ、戦じゃないか。誰かが死ぬなんて珍しくもないさ。そうだよね、勝往?」
 いきなり名を呼ばれ息を飲む勝往だったが、言葉遊びなど無用とばかりにすぐさま大槍を構える。まるで話も聞こうとしない様子に、白牙は肩をすくめて呆れの溜息をついた。
「まあまあ穏やかに。僕はもうこれで帰るからさ」
 そう言うなり、白牙の体が白い稲妻に打たれたかと思うと全身が白く発光し始めた。まるで稲妻を身に纏っているかのような姿である。そして白牙の姿が徐々に淡く色を失い始めた。輪郭もぼやけていき、背後の風景が微かに透けて見える。
「逃げるかッ!」
 咄嗟に踏み出した勝往が白牙を大槍で薙ぎ払う。しかし既に白牙の手応えは無く、大槍は水を切ったようにそのまますり抜けた。
「あ、そうだ。勝往、次に僕が迎えに来るから、それまでにちゃんと支度をしておくよう言っておいてね」
 姿の消えかけた白牙が唐突にそんな事を口にする。何の事か分からず勝往は眉間に深い疑問の皺を刻んだ。そんな勝往の様子を見た白牙はさも面白そうに笑い声をあげる。
「神弥の事だよ。女子は支度に時間がかかるものだからさ」
 そう言い残し、白牙の姿は薄闇の中へと消えていった。