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 夜明けと共に決着を迎えた江戸城の様子は散々たるものだった。
 徳川は鳥居清兵衛を失ったものの各隊の活躍により妖魔を圧倒、しかし戦況は白牙の登場により一変した。白牙は酒井の手勢を退けると本丸へ向かい、詰めていた平岩、安藤、奥平の三部隊を殲滅、榊原家当主である榊原仁之真までもが討死した。失った兵の数も多く、出陣した内のほぼ半数が帰らぬ者となってしまった。辛うじて徳川四傑が崩れる事にはならなかったものの、これほどの損害を被ったのは幕府史上初めてのことである。妖魔を退けたなど所詮は方便であり、実際は敗戦と言っても相違は無い被害状況である。
 江戸城は早朝より混乱の真っ只中にあった。各隊の被害の確認や負傷者の搬送、城下の混乱の鎮圧等々、問題は山積しているため、ほぼ全ての家臣が総動員で事態の沈静化に尽力している。
 仁之介は柳の間にて負傷し搬送された家臣を見舞っていた。昨夜の戦で最も多くの負傷者を出したのが榊原隊だったが、それを言い換えれば最も多く兵が生き残ったのが榊原隊だった事にもなる。出陣したほとんどの部隊は手勢を多く失い、再び部隊を編成するには次の望月まで間に合うかどうかすらも際どい状況だった。
「仁之介様、我らに御心遣いは無用でございます。今は我らよりも榊原家を」
 病床の家臣の一人が見舞う仁之介に対しそう訴えかける。その痛ましい姿に仁之介は思わず唇を噛んだ。
 たったこれだけの数で、榊原が一番生き残ったのか……。
 未だ正確な被害数は出ていないため、漠然としか死傷者の数は分からない。だが、どれだけ徳川が窮地に立たされているかは理解出来ている。再び妖魔軍は攻めて来るが、それを迎え撃つだけの力は果たしてあるのか。徳川の威光が薄れ世が乱れ、再び戦国の世に戻りかねないだろうか。そして、突然当主を失った榊原家はこれからどうなってしまうのだろうか。不安の種は尽きない。
 そして仁之介は奥の四畳間へと向かった。中では安甚が負傷した蒼十朗を治療している。
 蒼十朗はあまり顔色が良くなかったものの、意識はしっかりしていた。戦の興奮も覚め非常に冷静な表情へ戻ってはいたものの、やはり状況が状況だけに重苦しさは否めない。
「ここは仁之介殿の指定席でしたな。何とも縁起の悪い」
「されど、拙者は昼まで寝ていた事もござらぬよ。御安心召され」
「その出鱈目な体、拙者もあやかりとうござるな」
「ところで、狂次殿はどちらに? 柳の間にはおられぬようですが」
「酒井殿でしたら、今朝方出て行かれました。軽傷ではありませぬが、役務があるからと」
 狂次も白牙と交戦した際に決して軽くは無い傷を負ったと聞いている。しかし、その無理を押して職務を全うするのは、徳川四傑の筆頭としての責任感からか、それとも徳川家に対する忠義か、はたまたその両方か。もっとも、平素より仕事熱心な狂次が今の徳川家の状況を見れば、どれだけ重傷であろうと休む暇を欲したりはしないだろう。
 柳の間を後にした仁之介は、その足で三の丸を抜け北の丸にある邸宅へ戻った。邸宅の門には忌中の札が貼られている。何故こんなものが貼られているのか理由はしっているものの、いざ目の前にしてみると思わず背けたくなってしまう光景だった。
「御帰りなさいませ、仁之介様」
「父上はどちらに?」
「寝所でございます」
 屋敷の空気はどことなく物静かで陰鬱だった。明らかに漂う雰囲気が異なっている。見慣れた建物でありながら、まるで別な場所へ迷い込んでしまったような錯覚すらある。
 寝所に仁之真の遺体は安置されていた。遠目から見ればまるで寝ているように見えるものの、傍に寄ればそうでない事は明白だった。清められた仁之真の遺体はそれでも戦での痕を濃く残している。今日は友引であるため通夜は明日になる。それが終わり次第、一度上州へ連れ帰る。しかし物言わぬ姿で戻って来た仁之真を見て、上州の家臣達は一体どのように思うのか。想像しただけでも胸が痛む。
 仁之介は座しながら深く項垂れた。あまりに突然の事で感情の整理がつかなかった。その雑多なものを全て押し込んでいたせいか、余計に収拾をつけられない。しかし、幼少より華虎から男児は泣いてならぬと教え込まれたため、仁之介はただひたすら耐えていた。
 仁之真は優しい父親だった。思い返せば一度も叱られた記憶が無い。武道も学問も作法も華虎にばかり教え込まれた。仁之真との記憶はほとんど縁側でのんびりと談笑するものばかりだ。
「父上、あなたは屋敷にて拙者を見守っていると仰ったではありませぬか。何故、兵を率いられたのです……」
 理由は問うまでもなかった。本丸にまで妖魔に攻め込まれては、たとえ文官であろうと軍を挙げなければならない。そして、仁之真は誰よりも武功を欲していた。功への欲は、同じように恵まれていなかった仁之介には痛いほど良く分かる。
 やがて静かな足音と共に寝所へ誰かがやってきた。聞き慣れた足音から、それが華虎である事を知った。
「来ていたか」
 仁之介は一礼し再び仁之真へ向き直る。その向かい側へ華虎も座した。
「久しぶりに顔を見たと思えば……。父上が戦死されるなどと、私は夢にも思いませんでした」
 華虎はいつもの無表情で仁之真の顔を見つめる。けれど、少なからずの動揺は見て取れた。ただそれを表に出さぬよう気丈に努めているのである。
「父上の最後を看取ったのか?」
「いいえ。ですが、最後まで戦おうとされていた、立派な御姿でした」
「榊原らしい最後だったのだな」
 僅かに華虎が微笑んだように仁之介には見えた。しかし、決してそれは喜びだけではなく、悲喜こもごもとした複雑なものだ。
「仁之介、何故お前が武功を挙げられないのか分かるか?」
「それは単に拙者が未熟な故」
「ならば、未熟さを自覚しておられる父上が決起されたのは、武功を挙げるためだと思うか?」
 その問いに仁之介は息を飲みそのまま顔を俯けた。答えが分からぬ訳ではなかった。ただ、あまり単純な答えに自分自身が驚き戸惑ってしまったのである。
「確かにお前はこの国でも指折りに数えるほど強い。しかし、お前には信念というものがない。それは私が幼少より武芸ばかり修めさせたせいだから申し訳なく思う。だが、もはやそうも言っていられる状況ではなくなった。今日から榊原の当主はお前だ。これまでのような半端な意思で務まるものではない。お前は覚悟を決めようが決めまいが、家臣は皆お前に命を預けざるを得なくなる。その重みが分かるか? 父上が何故あのような行動に出たのか良く考えるのだ。父上の仇を取る事が誉れではないとは言わぬが、より大切なものが武士にはある。それだけは肝に銘じておけ」
「……承知いたしました」
「ならばもう行け、仁之介。今は喪に服すより徳川家を支える事が重要だ」
 最後に仁之介は深々と座礼し無言のまま寝所を後にした。華虎は立ち去る仁之介を見送りもせず、ただじっと視線を仁之真の遺体へ注いでいた。その表情は既に感情の起伏に乏しい普段のものへ戻りつつあった。