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 定例となっている謁見が開かれたのは、戦が終わった三日後だった。被害状況の調査が終わり臨時の体勢も整ったため、ようやく江戸城は以前の落ち着きを取り戻しつつあった。しかし妖魔との一件は既に江戸中の知る所となっており、町民達の徳川幕府へ対する不安感は一層強まっている。奥州が下克上を画策している、豊臣氏の生き残りが島津家と手を組んだ、毛利が不穏な動きを見せている、といった根も葉もない噂が爆発的に広まり、もはや手の付けられない状態だった。だが今更言論統制をしたところで、かえって幕府が火消しに躍起になっていると揶揄されてしまうだけである。今はどのような風聞が流されようと、ただじっと黙って耐えるしかなかった。
 一応の機能を取り戻した江戸城内、その大広間にて定例の謁見は開かれた。謁見の間に集まった旗本陣の半分近くは列座していないか、初見の者になっていた。戦で討死したため列座出来なくなった旗本がそれだけ存在するという事である。数字では実感できない被害の規模も、この状況を見れば如何に深刻なものかを実感出来る。
 現れた徳川紀家は、明らかに顔色も悪く心労が溜まっているように見えた。体制の立て直しや混乱の鎮圧等、この三日間は寝る間も惜しんで働き続けた結果である。特に狂次は怪我も治らないまま実務に徹し続けていたため、ただ歩くにしても時折ふらつくような有様だった。普段と変わらないのは、最も重傷を負い袷の間から包帯を覗かせながら列座する蒼十朗のみである。
「ふむ……随分と面子も様変わりしたのう。何はともあれ、此度の戦も大儀であった」
 紀家はいつものように扇子を指で鳴らしながら労いの言葉をかける。しかし、いつになく覇気の無い声だった。
「此度は苦闘だったのう。わしは多くの家臣を失ってしまった。榊原仁之真、鳥居清兵衛、平岩牙六、安藤鍔山、奥平行岩、それぞれに仕えていた兵共々。幾人も、幾人も……」
 重苦しい溜息をつく紀家。一同も心痛の表情で目を伏せる。
「これから徳川は苦しい状況に立たされる。次の望月の戦もあるが、幕府の体制もだ。それに……」
「上様、その前にお話がございます」
 ふと神妙な面持ちで割って入る勝往。不躾な行動に一同は驚き顔を上げる。
「勝往、いきなり無礼であろう」
「狂次殿、ここは譲っていただきたい。これは拙者のみならず、徳川家臣全てに関わる事でござる」
 狂次は更に反論しようとするも、いつにない気迫の篭もった主張をする勝往に気圧され思わす譲ってしまう。紀家はただ静かに扇子を弄る手を止めた。
「拙者、此度の戦にて妖魔の王である白牙と相対致しましたが、その折にどういう訳か神弥様の名を語り申した。次の望月に迎えに来るため支度をするようにと。これまで妖魔の目的は漠然としておりましたが、これで目的が神弥様であると分かり申した。しかしながら、ただの妖魔風情が何故神弥様を欲するのか、拙者には理解に苦しむのでござる。少なくとも拙者の知る範囲では、徳川と妖魔には何の繋がりもござらぬ。にも関わらず白牙が神弥様を欲する事実。もしや殿は、その繋がりについて何か御存知なのではありませぬか?」
「わしが、徳川は妖魔と繋がっていた事実を隠していると、そう申すのか?」
「無論にございます」
 明らかに不快感を示す紀家を前に、勝往は視線もそらさず真っ向から断言した。勝往は徳川きっての忠臣、それがこのような無体に出るなど驚くべきことである。
 そんな中、不意に仁之介は鳥居清兵衛の話を思い出した。妖魔とは何か。我々は妖魔の目的も知らずに戦っている。確かに妖魔が江戸城を襲おうとしているだけで戦う理由には充分値する。しかし、戦とは利権だけで行うものではない。そこには何らかの感情が必ず含まれるのだ。不義のために戦う事は魂を曇らせる。それは侍にとって恥ずべき行為だ。清兵衛はそれに嘆いたのではなかったのだろうか。
「勝往、本多家は代々徳川家に良く尽くしている。この日ノ本には本多を知らぬ侍などおらぬであろう。その高名を、たった一度の不注意で絶やすつもりか」
「それで全ての家臣の疑心が取り除けるのであれば、喜んでいたしましょう。本多家は徳川の守護神、徳川の礎となるならそれも本望」
「乱心したか。場合によってはお前が腹を切るだけでは済まさぬぞ」
 緊迫した状況に緊張感が走る。
 これは止めるべきか。そう思う仁之介だったが、不意に華虎の言葉が頭を過ぎった。自分は今後から榊原家を守らなければならない身である。迂闊な行動で巻き込まれる訳にはいかない。けれど勝往は無二の親友でもある。見捨てる訳にも行かない。
 そんな迷いに奥歯を噛み締めていたその時、突然大広間の襖が外から開かれた。一斉に振り返る一同。そこから現れたのは神弥と華虎だった。
「父上、私もお聞かせ戴きとうございます」
 神弥は大胆にも紀家の目前へ歩み寄るとそこへ座した。
「今は戦の話をしておる。女の出る幕ではない。下がっておれ」
「されど、聞く所によると妖魔との戦には私が関わっているそうではありませんか。ならば私にも知る権利がありましょう」
「心配せずとも、お前は必ずわしが守ろう。華虎、神弥を奥へ連れて行くのだ」
「いいえ父上、私はお話して戴くまで戻りません」
 あくまで居座ろうとする神弥、その後ろに座する華虎もそのまま動こうとはしない。そんな二人の態度に俄かに頭を沸騰させた紀家は、遂に腰を上げて立ち上がった。
「いいから戻れ、父に逆らうつもりか!」
 紀家は神弥の前で手を振り上げる。だが放たれたその平手は、神弥に触れる直前で背後から伸ばした華虎の手に押さえられた。
「上様、神弥様を御打ちになるのであれば、私を御打ち下さい。それが私の役目が故」
 鋭い視線で射抜かれた紀家、俄かに己を萎縮させるものの依然として己を収めようとはしない。だが神弥は怯む事なく、一層語気を強めて紀家へ詰め寄った。
「父上、この時期にかような疑心の種を蒔いては徳川の存亡に関わります。何か存じているのであれば、どうかお聞かせ下さい。家臣は皆、父上を信頼しております。決して裏切ったりはいたしません。ならば父上も家臣を信頼し全てを打ち明けるのが筋でございましょう」
「わしが家臣を疑っていると申すのか?」
「違うと仰るのであれば、お聞かせ下さい」
 一向に引く様子を見せない神弥。そんな姿を前に紀家は深く溜息をつくと、急に静まり返って上座へ腰を戻した。
「わしは、一生話さずに済ますつもりだったのだがのう……」
 がっくりとうなだれ、手元の茶を一気に飲み干した。それから手拭で額の汗を拭きもう一度溜息を短くついた後、観念したのかゆっくりと口を開き始める。
「もう九年も前になるか。神弥、お前は流行り病で一度死に掛けている。もう、憶えてはおらぬだろう」
 神弥が生まれつき病弱であった事は周知の事実である。その頃の紀家は正室の乙弥を失った傷心もあり、神弥のために国中は元より異国の医師を招いたりと奔走していた。すがりつける神仏には全てすがりつき、祈祷に妙薬とやれる事は全てやり尽くした。その後、何が効果を及ぼしたのかは分からないが、やがて神弥は驚くほど健康を取り戻し、今日まで怪我や病気など一つとしてしていない。
「あの病は、全ての医者から一様に助からぬと匙を投げられていた。もはやどうにもならぬと知って、わしは日々嘆き悲しんだ。乙弥にも先立たれ、お前までも失って、一体どう耐えれば良いのかまるで分からなかった。いっそ共に死んでやろうと考えたのも一度や二度ではない。そんなある晩、医者からは遂に今夜が峠だろうと聞かされた。将軍であるわしがおいそれと死ぬ訳にはいかない。だからせめて最後まで一緒にいてやろうと、わしはずっとお前の傍で祈っていた。今思えばそれも、丁度夜八つ半だったのう。突然それはわしの前に現れたのだよ。黒だけの喪服を着た一人の女。それは自ら黄泉津大神と名乗った」
 黄泉津大神と言えば、死後の世界の神である。言わば忌神で、祟られぬように祀る以外に接点を持とうとしないのが普通だ。下手に関わったところでどんな祟りを受けるのか分からない、そんな神である。
「黄泉津大神はわしに取引を持ちかけてきた。もしも自分とある約束をしてくれるならば、神弥の命を助けてやろうと。黄泉津大神には白牙という一人息子がいたそうだ。そしてその約束とは、神弥が成長したらば白牙へ嫁がせるという事だ」
 一同は戦慄した。まさか妖魔が紀家の一人娘を嫁にしようと軍を向けているなど思いもしなかったばかりか、想像するだけでもおぞましい事であるからだ。人と人外との祝言など想像すら忌まわしい事である。
「神にも仏にも医者にも見離されたわしには、もはや彼女にすがるしか他無かった。まったく皮肉な事だな、最後に拾ってくれたのがよりによって死神とは」
 そう自嘲めいた笑いを浮かべ、紀家はがっくりと肩を落とす。
「……妖魔達は、私を黄泉津大神の息子へ嫁がせるために、この江戸城へ迎えに来ているのですね」
「いや、わしが約束を一方的に違えたため、怒って奪い取りに来たのだろう」
 紀家は自分のした事を後悔していた。他に神弥を助ける術も無かったから致し方ないのかもしれないが、結果的にはそのせいで何も知らぬ家臣を何人も戦へ駆り出し死へ追いやってしまった。それが果たして主君が通すべき義なのかどうかは言うまでも無い。主君とはあくまで私事ではなく国のためにあるべき存在なのだ。
「殿、今からでも双方が納得行く形で和解は出来ぬのでございますか?」
「無理だろう。わしは、最初の戦より前に現れた妖魔の使者を華虎に斬り捨てさせたのだ。それも一方的に」
 事の顛末はこうだった。
 ある晩、紀家の寝所に二人組みの白装束が現れた。形こそ人のものではあったが、その異様な雰囲気から妖魔であると分かった。神弥を迎えに来たのだと察知した紀家は、控えていた女中に急事の合言葉を添えて神弥を呼ぶように言いつけ、神弥の影武者を使って相手が油断したところを小刀を隠し持った華虎に斬り捨てさせた。この件を知る者全てには緘口令を敷いたため、当事者以外で知る者はいないのである。
「妖魔が徳川に弓を引くのは当然の事。わしが先に約束を違えたのだからな。お前達には妖魔が城を襲おうとしていると嘘をつき、今日までずっとこの事実を隠し通してきた訳なのだ」
 顔を上げた紀家の表情からは陰鬱なものは消えていたものの、逆に一線を踏み越えた自虐的な笑みが浮かんでいた。
「さあ、これでわしの知っている事は全てだ。言うなれば、妖魔との戦はわしの私怨にしか過ぎぬ。それにお前達をつき合わせてしまい、すまなく思っておる。それでも、わしは神弥を失いたくはないのだ。どうかこの通りだ、このままわしについて来てはくれぬか」
 そう紀家は両手をつき頭を下げようとするが、すぐさま飛び出した狂次がそれを止める。天下の将軍が家臣へ軽々しく頭を下げてはならないからだ。
「上様、これにて拙者の疑念は晴れ申した。拙者の方こそ非礼を詫びねばなりませぬ」
「勝往、お前はまだわしについてきてくれるか?」
「無論にございます。本多は徳川家の守護神でございます。それに、ここには異論のある者はおらぬでしょう」
 そう勝往は振り返り一同を見渡す。旗本達は皆、勝往に追随するように頷く。
 そして、
「神弥は父上の娘に生まれて幸せですよ」
 いささか誇張しているようにも思われたが、そんな神弥の言葉に紀家は思わず目元を押さえてしまった。神弥は微笑みながら紀家の傍へ寄り添う。華虎はそんな二人を見て黙って頷いた。
「わしは果報者だな……」
 目元を押さえる紀家の指の間からは涙が一滴零れ落ちた。