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 その夜、仁之介は夢を見ていた。それは先月の戦の後に見た夢の続きだった。
 この世のものとは思えぬ洞穴を進む中、仁之介は空腹に困窮していたのだが、黒ずくめの男に握飯を貰い、それを夢中で食べた。
「まことにかたじけない。これで生き返り申した」
「結構な事でございます」
 そう黒ずくめの男は不気味な声で笑った。
「ところで、一つ訊ねるが此処は一体何なのだ? 見たところ何かの巡礼のようだが」
「お侍様、まさか此処がどこだかも存じ上げないで参られたのですか?」
「いかにも。拙者の姉上が武者修行の一環として、この洞穴の一番奥へ行って戻って来るよう申されての」
「此処は黄泉比良坂、生を終えた者が行き着く死者の国でございますぞ」
「なんと……これはさすがにとんでもござらぬ。拙者、まだ死ぬ訳には参らぬが故、ここいらで戻るといたそうか。どれ、何か証拠になるようなものでも持ち帰るとしよう。何か良いものは無いか」
「いいえ、お侍様。もう帰られませんぜ。お侍様は黄泉の食べ物を口にいたしましたから、もう黄泉の住人でございます」
「何を馬鹿な事を申すか。拙者はこの通り、まだ生きておるではないか」
「ではお侍様、試しに後戻りしてみて下され。すぐに嘘を言っていない事が分かるでございましょう」
 仁之介は男の言う事を疑いつつも、試しに踵を返し自分が来た方へ引き返そうとした。
「むっ? まさか……」
 仁之介の表情が一変した。驚く事に仁之介は足を踏み出す事が出来なかった。だが、踏み出せないのはあくまで帰り道の方向だけで、それ以外には普通に動く。進む事は出来ても戻る事は出来ない。男の言う通り、仁之介は既に黄泉の住人となってしまったため現世には帰られなくなってしまったようである。
「これは困ったのう。拙者は榊原家を継ぐ身なのだ。お家を絶やす訳にはいかぬ。なんとしても戻らねばならぬのだが」
「でしたら、黄泉津大神様にお会いになるのが宜しいかと。黄泉津大神様は黄泉の女王様でございます。どうにかして気に入られでもすれば、あるいは」
「なるほど。では早速そうするといたそうか。して、黄泉津大神とやらはどこにいるのだ?」
「へえ、この先をこのまま真っ直ぐお進みになりませ。まだまだ先は長うございますが、なあに、黄泉の食べ物を食べたのであれば腹は減りませぬし、たとえ怪我をしようとも死ぬ事はございません。なんせ死人ですからのう」
「ふむ、それはそれで便利だのう。それでは、世話になったな。拙者は先を急ぐ故、これにて」
 仁之介は洞穴を更に奥へと進んだ。周囲を足音も無く進む人影は、おそらく死者の魂か何かなのだろう。死者のための国へ生きている自分ほど場違いなものは無いものである。
 やがて洞穴は徐々に狭まっていき、遂には両手を広げる事すら出来ないほどの幅になってしまった。道を間違えたかと仁之介は危惧したものの、周囲の人影はこの狭い方へ集まって来ているのでおそらく間違ってはいない。だが、どうしても死者と共に列を成して歩いてしまう事に違和感を覚えてならなかった。列の先には人一人が潜るのにやっとの小さな穴が空いていた。人影は一人ずつそこへ消えていく。どうやらその先に黄泉の女王はいるようである。仁之介もまたその穴へ続いた。
「これは……」
 穴を潜った仁之介は思わず天井を仰いだ。そこには驚くほど広大な空間が広がっていた。両端や天井は全く見えず音も反響しない事から、洞穴の中にいるとは思えないほどである。足元には横幅のある土の道が直線に伸びている。僅かに傾斜があって上り坂となっている。直感的に仁之介はこれが件の黄泉比良坂と考えた。黄泉の国へ辿り着くには、まずはこの坂を登りきらなければならない。
 ひたすら坂を登って行く仁之介。それも普通では考えられないほどの時間を費やして歩き続けた。歩けど歩けど疲れは増す一方で景色も変わらない。その上、あの男は黄泉の住人なら腹は減らないと言っていたが、時間と共に空腹も渇きも再び訪れてきた。生きたまま黄泉の住人になるのは普通とは少々違う事になるようである。いつしか坂は傾斜がきつくなり、遂に坂の終わりが見えて来た。仁之介は疲れた体に鞭を打ち、残りの道のりを一気に駆け登った。
「これは……」
 坂を登り切った所には小さな小屋が建っていた。その入り口にはあの人影が列を成して順番を待っている。どうやら関所のようだった。列は長く端はすぐに見つける事が出来ない。悠長に並ぶのも煩わしく、仁之介は順番を無視して直接関所の役人の元へ向かっていった。
「失礼、拙者は榊原仁之介と申す者。黄泉の女王と謁見したいのだが」
 突然の仁之介の問いかけに、異形の役人は怪訝な様子を見せる。
「貴様……黄泉の匂いはするが、生者か?」
「いかにも。しかし黄泉の住人となってしまった故、現世に帰れず困って折り申す。そこで黄泉の女王へ直接掛け合いに来た次第」
 すると役人達は戸惑った様子で集まると、声を潜めながら何やら話し合いを始めてしまった。