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 望月まで残すところ五日。
 先の戦で損壊した江戸城の修復工事はほぼ完了しており、今は徐々に戦へ向けての補強工事へと移っていた。大量に人夫を雇い入れ作業を急がせているものの、江戸城は元々他国からの侵略を考慮した設計ではないため効果のほどはあまり期待出来そうにない。望月が近づくに連れて、狂次もより慎重に敷地内を巡回しては細かく確認を行った。工事の進行状況の確認もそうだが、全軍の指揮を預かる立場上は防衛戦のための戦略を練る事も必要であるため、出来る限り現場は見知っておかなければならないのだ。
 そんな狂次に、その日は仁之介と勝往が供をしていた。二人もまた前線に立つ立場にあるのえ、戦略の過不足を是正すべく指揮する立場との意見交換を行うためである。
「ようやく修復の方は終わったようでござるな。しかし、物見やら馬防柵やらと随分様変わりいたしましたな」
「妖魔の王の実力をああも見せ付けられては、こちらも形振りは構っていられぬ。上様ならば、神弥様と城の美観とを天秤にかけたりはすまい」
 終始城の美観に拘っていた狂次らしからぬ意見である。だがそれは、前線に立つ者にとって歓迎すべき変化である。
「それに、大神実命の札がまだ十分に行き渡っていない。大神実命の札は防衛の要となる。こればかりは何とかせねばなるまい」
「大神実命と言えば、正門の閂でもその札を見かけましたな。あれはやはり妖魔対策であろうか?」
「そうだ。大神実命とは桃の化身、黄泉の住人を追い払う力があると言われている。城の損壊状況を見るとやはり札の少ない部分に被害が集中する傾向にあり、やはり妖魔にとって大神実命の札は天敵なのだろう」
「しかし、思っていたよりも札は城中に張り巡らされているのでござるな」
「本来なら大神実命の札の存在は秘中の秘で、上様と拙者と作事奉行を除いて知る者はいなかったのだ。何故、大神実命の札がこうも張り巡らされているのかと要らぬ誤解を招かぬためにだ。もはや今となっては、城中に大神実命の札があるのは公然となってしまっているがな」
「大神実命の札はやはり上様のお考で?」
「所謂、妖魔除けだ。例の妖魔の使者が来た直後に行った。城の塀などまだ可愛い方だ。大奥にいたっては、どこの板を剥がしてもびっしりと出てくるらしい。大神実命の札は妖魔の感覚を狂わせ精気を奪うそうだが、白牙が本丸を突破しながら中奥で引き返した所を見ると、たとえ妖魔の王であろうと大神実命の力は無視出来ぬようだ」
 これまでの戦を思い返せば、妖魔の兵は敵を倒す事よりもむしろ塀を壊す事を優先していたように思う。あれは尖兵を捨石にして札を剥がし効力を無くさせる作戦だったのだろう。
 昼前から夕方近くまでかけて敷地内を回った三人は、最後に本丸へと足を向けた。本丸は今回最も被害の大きかった場所である。本来なら防衛の要とは思えぬほど優雅な庭園が築かれていたのだが、それらは全て白牙によって焼き払われている。それも、本丸を守っていた徳川家臣諸共だ。
「江戸の町も変わりましたな。昨日、見回りに繰り出してみたところ、驚くほど閑散としていて驚き申した」
「妖魔を退ければ直に人は戻る。案ずることは無い。この日ノ本を支え、動かしているのは江戸なのだ。最も栄えているのも江戸、ならば必然的に人は集まる。徳川の威光は揺らがぬよ」
「うむ。此度の戦にて最後の決着をつけ、民の不安を取り除きましょうぞ」
「ところで、蒼十朗はどうした? 最近姿を見せぬようだが」
「蒼十朗殿でしたら中にいるかと」
「戦狂いが郭狂いになってどうするというのだ、まったく。井伊は使い物にならぬのか?」
「御心配召されるな。蒼十朗の郭住まいはいつもの事、むしろ力が有り余って仕方ないのでござろう」
 江戸を離れた人間は、遂に全体の三割に達したという。一時避難を含めれば更に数は膨れ上がる。それだけ江戸の町民は徳川家に不安を抱いているのだ。
 やがて三人は本丸の一角にある臨時の茶店を見つけた。何時の間に出来たのか分からなかったものの、他に客も無く一息つこうと思っていたため、幸いとばかりに腰を下ろす。
「拙者、一つ気になる事があり申す」
「何だ?」
「上様は黄泉津大神と取引を行い、それ故に神弥様は一命を取り留めになられた。黄泉津大神は黄泉の女王、つまりは死者の国を治める者でござる。拙者が幼少の折に黄泉へ行って来た事は存じておると思いますが、黄泉とは即ち死んだ人間が行き着く場所でござる」
「今更言われずとも分かる。回りくどい言い方をするでない」
「失礼仕った。我らが戦っている妖魔の正体とは、黄泉の住人。つまり、生前は我らと同じ人間だった者ではないのか、という事でござる」
「ふむ、それは確かにそうかも知れぬが、何か問題があるのか?」
「妖魔とは言え、元は人間なのかと思いますと。少なからず気がかりにござる故」
「仁之介、だからお主はうつけと呼ばれるのだ。我らは徳川に弓引く者と戦ってきた。その際に我らが討ち取ってきたのは、一体何だ?」
「……人間にござるな」
「そういう事だ。結局は何も変わらぬ。人間の姿をしているか否か、それだけの問題よ」
 そんな議論を白熱させる中、不意に神弥と華虎が店へやって来た。二人も城を見回っていたらしく、休憩のため立ち寄ったようである。
「あら皆様、お揃いですね」
「これは神弥様、ご機嫌麗しゅう」
 真っ先に挨拶する狂次。そんな彼を見て華虎は眉を潜めた。文官を好ましく思わない華虎には、狂次の言動が媚を売っているようにしか見えなかったからである。もっとも、狂次もそんな華虎の胸中に気が付いていない訳でもなかった。
「仁之介、このような所で何をしておる。此処は姫様のために用意した甘味処であるぞ。戦の話は他所でやらぬか」
「なんと、それは豪奢ですな。しかし、わざわざ城下へ御出になるならこのような所に建てなくともよろしかったのでは? とても楽しむような景観ではありませぬぞ」
「城下町に上様の内偵がおってな。神弥様をお忍びで連れ出していた事が上様のお耳に入りそうなのだ。今は何とか懐柔している最中が故、しばらくはおとなしくせねばならない。それでこう、気分だけでもとな」
 神弥と華虎が無断で城から出ている事を知らなかった狂次と勝往は、驚きも露に眉を潜めた。特に規則に厳格な狂次は心中穏やかではなく、今すぐにでも華虎の無法を咎めたかったが、神弥の手前ではそれも出来ず苦虫を噛み潰した表情のまま憮然と茶をすすった。
 早速神弥の元へ店主が恭しく品書きを持って現れる。さすがに姫がやってきたという事もあり、その対応も三人の時に比べ大分熱が篭もっている。品書きを広げ華虎と見定める神弥は自然と口元を綻ばせた。神弥が最も楽しみとしているのは、こうして様々な甘味を味わう事である。それも城の中ではなくそれぞれの店でなければならない。行きと帰りの道程もまた楽しみの一つなのである。
「ねえ、華虎。これは何かしら? 初めて見るものよ」
「おい店主、これは何だ?」
「はい、南蛮からの渡来品でございまして。触ると堅いのですが口の中で泡のように溶けてしまう、それは不思議な菓子でございます」
「まあ、素敵。一つ戴くわ。それから、えっとこれは……」
 神弥は夢中になって品書きの文字を追っている。その姿は未だあどけない普通の少女であるが、神弥はこの戦の一番の中心に立たされている人間であり、神弥自身も今やそれを自覚している。それは一体どのような心境なのだろうか、汲もうにも汲みきれぬ複雑な思いで三人は、今はただその楽しげなその姿を見ていた。
 妖魔との戦、妖魔の王である白牙には絶対に負けられない。仁之介にとっては、同じ徳川の旗本だけでなく父の仇でもある。彼らの無念は濯がねばならない。けれど、最も肝要なのはとにかく徳川を守り抜く事である。
 今や自分が榊原十万石の当主である。父の遺志を継ぎ立派に御役目を果たしてみせよう。そう仁之介は密かに誓った。