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 望月当日、その日の江戸城は物々しい雰囲気に包まれていた。
 戦える者は文官であろうと総てが戦いに備え、戦えぬ女子供は大奥へ避難し敵に備える。猫の子一匹とて入り込めぬ、非常に緊迫した態勢である。城下町には戒厳令が敷かれ日没後の外出は一切禁止とされた。町方同心は総動員、町の警邏へ当てられ混乱を未然に防ぐ体制を取る。江戸城には総勢八千を越える兵が集められた。戦が無く文官が重宝される時代となって以来、どこの藩も武官は極めて少ない。ほとんどの侍が武術を片手間にしか嗜んでおらず、素槍を持つ事すら初めてである兵も珍しくは無い。そんな中でもどうにか掻き集めた八千の兵、全てを精鋭と呼ぶには程遠いものの、これが今の徳川が揃えられる最大限の戦力だった。果たして妖魔軍の総力を耐え切る事が出来るのか、それはもはや精神論を持ってでしか論ずる事は出来ない苦しい状況である。
 徳川四傑を筆頭に、徳川旗本陣の面々は本丸に張られた本陣へ集結し、戦い前に備えていた。それぞれの布陣と役割、指揮系統等の最終的な確認。しかしそれはほとんど形式的なものであり、戦の準備は既に昨日の内に全て整っている。本陣を敢えて本丸に置いた布陣は、とにかく夜明けまで耐え抜く事を目的とした防御的な隊形である。しかし、妖魔の王である白牙を討ち取れなければ次の望月にも妖魔軍はやって来る。防衛こそ目的ではあるが、最終的には誰かが白牙を討ち取らねば戦の意味が無い。今宵は背水の陣である。次の戦など在りはしないのだ。
「以上だ。皆の武運を祈る」
 全ての確認が終わり、狂次の何時に無く冷徹な声が終わりを告げた。狂次の事務的な態度は今に始まった事ではなかったが、少なからずそれが背水の陣に立っている自分達の立場を意識させた。一同は皆緊張した面持ちで黙って頷き合う。紀家は三つ葵の家紋が入った鎧を身に纏い、腰掛に着いたまま重苦しい表情で一同を見渡していた。だが自分のそんな仕草がまるで通夜のような空気を陣中に生み出している事に気付くと、無理はあるものの努めて気丈な表情を作り浮かべる。
「わしはただ見ているだけしか出来ぬが、皆の者、頼んだぞ」
 紀家の言葉に、一同は勇ましい声で応えた。紀家は満足そうに頷くものの、その心中はやはり穏やかなものには程遠かった。
「日没までもう幾許も無い。各自、自陣へ戻り開戦の合図を待て」
 動揺の多い紀家に代わり狂次が指示を出す。出来る限り自分が補佐をせねばという気持ちはあったものの、狂次もまた完全に平素という訳ではなく言葉の語尾には多少の震えがあった。
 その時だった。不意に陣幕の一部が外から捲り上げられ何者かが入って来る。それは神弥と華虎だった。
「か、神弥、もう戦は始まるのだぞ! 此処は危険だ、早く奥へ戻るのだ!」
「御邪魔は致しません。すぐに戻りますわ。その前に、私も皆へ一言」
 神弥は一同の顔を一人ずつゆっくりと見つめる。その神妙な面持ちに誰一人として口を開くものは無く、ただじっと目を俯ける。そして神弥は静かに息を三つつくと、躊躇いがちに口を開いた。
「どうか、御武運を」
 徐に放たれたその言葉は、要した間の割に至極在り来たりなものだった。だが言葉の節々に神弥の複雑な心中が滲み出て、どんな言葉よりも神弥の本心に近い印象を一同へ与えた。本当はもっと多くの事を伝えたい、そんな神弥の胸中をほとんど言い表せてはいないのだが、ただ黙って頷く一同にそれは間違いなく伝わったはずである。
「さあ、神弥。お前は奥へ。華虎、神弥を頼んだぞ」
「はい。必ずやお守り致します」
 本陣の離れ際、神弥はもう一度陣内を振り返り、そしてそっと目を伏せた。その心痛な表情を見送る紀家もまた、同じように心痛の表情を浮かべている。しかし己こそが率先して士気を高揚させねばならない立場である事を思い出し、意識して普段通りの毅然とした姿へ戻す。それから間も無く夕七ツ半を知らせる鐘の音が鳴り響いた。茜色に染まっていた西の空も濃紺へと移り変わりつつある。普段ならば鴉の鳴き声も聞こえるのだろうが、むしろ周囲は不気味なほど静まり返り、兵達の具足が擦れる音だけが時折響くのみである。鳥や虫は既に異変の気配を敏感に感じ取っているのだろうか。
 いよいよ戦も始まろうとしている。各旗本達はそれぞれの自陣へと向かい、妖魔を迎え撃つ体勢を完全なものへ整える。本陣には狂次率いる酒井軍が残った。本陣は江戸城の最終防衛線、破られる訳にはいかない場所を任される狂次には大きな重圧ではあったものの、この戦を紀家同様に妖魔との最終決戦と考えているためか、表情は毅然とし一分も臆す様子は見られなかった。
「これより厳戒態勢へと入る。皆の者、本陣を決して落とさせるでないぞ」
 本陣の周囲には数百に及ぶ酒井家の精鋭が取り囲むように配置されている。全ての兵には鉄砲の代わりに石弓が持たされていた。白牙に鉄砲を暴発された事例を踏まえての配備である。
 本陣では、紀家は鎧の隙間から取り出した扇子を右手で弄っていた。毅然とした表情を努めつつも指先は落ち着きが無く、そんな指先がまるで不安に溢れる心中を現しているようだった。
「狂次、わしは己を情けなく思う」
「上様?」
 突然口を開き訊ねて来た紀家に、傍らの狂次は首を傾げながら問うた。
「己の不始末を己で濯げぬばかりか、お前達ばかりに余計な苦労をかけている。わし一人の感情で家臣を理不尽に虐げ、一体何が主君なのか」
「我ら家臣共々、神弥様の危機とならば喜んで御守りいたしましょう。上様が神弥様を大事になさるように、我らにとっても神弥様はかけがえの無い大切な御方。父と家臣との立場の違いはあれど、気持ちは全く同じでございます」
「ならば、せめてわしに出来る事は無いのか? 何もせず本陣で構えているだけで、本当にわしは良いのか?」
「良いのです。上様は我らの心の拠り所、堂々と構えて御出でになれば皆の勇気は奮い立ちましょう。こうして同じ戦場へ立てる事だけでも名誉であるのです」
「天下の徳川将軍も、戦では狸の置物か」
「徳川は日ノ本を守り、上様は徳川を守り、我ら家臣は上様を守り死する事が役目にございますから」
 夜空には真円を描く望月の月が煌々と輝いている。しかし、雲一つ無く晴れ上がっているというのに星は一つとして見つける事が出来なかった。昔から望月は眺めて楽しむものだったはずだが、何時から恐れや焦りを抱くものになったのだろうか。そう狂次は目を細めた。
 やがて生温い風が首筋を吹き抜け始めた。兵達に一層の緊張感が走り、いつの間にか誰一人として一言も発しなくなった。
 程無く、本陣へ一人の兵が血相を変え飛び込んで来た。遂にいよいよかと緊張が最高潮へ達した。
「御注進申し上げます! 物見より怪しげな光が現れたとの事! 妖魔が現れた模様です!」
「遂に来たか。全軍へ合図を送れ! これより妖魔と最後の決着をつける!」