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「来たぞ、妖魔だ!」
 三の丸に布陣していた榊原軍には俄かに緊張が走った。既に正門外及び正門近くに布陣している部隊は妖魔との交戦を開始している。榊原軍の役割はあくまで三の丸の突破を防ぐことであるため、迂闊に動くことは出来なかった。
 北の丸には井伊軍、西の丸には本多軍が布陣している。いずれにも本丸へと続く経路がある重要な拠点だ。どこか一つでも破られれば、たちまち本丸は危機に晒され味方の布陣も総崩れとなる危険性がある。非常に苦しい戦況ではあるが、ともかく味方は決して負けないと信じて戦う他無い。
 突如、布陣する兵達の間にどよめきが走った。
「あれは……!」
 仁之介は信じられないものを目にした。それは、城の塀を軽々と乗り越えるほどの巨大な妖魔だった。しかし良く見れば、それは以前のような一体の巨大妖魔ではなく、無数の妖魔が寄り集まった塊だった。思わず蜘蛛の出産を連想してしまうような不気味でおぞましい光景である。
 一体、幾つの妖魔が来ているというのだ……!
 妖魔の塊は大神実命の札の力により片端から焼かれるのも構わず、体当たりを持って塀を崩しにかかる。一度の突撃で妖魔が塊で消し飛んでしまうのだが、次から次と押し寄せてくる妖魔の数に陰りは見られない。大神実命の加護を圧倒的な物量を持って突破しようという作戦のようである。妖魔の常套手段ではあったが、改めて見る集団自殺のような妖魔の戦いは恐ろしいほどおぞましく感じられた。
 圧倒的な妖魔軍の物量により、正門と周囲の塀は瞬く間に破壊され突破を許してしまう。最初の壁を破った妖魔軍は、鉄砲水の如く三の丸へ雪崩れ込んできた。
「仁之介様、これでは兵が持ちませぬ。大筒で蹴散らしましょうぞ」
「いや、それでは前線の味方まで巻き込んでしまう。あくまで支援は鉄砲と弓だけに留めておくのだ」
 されど鉄砲などあの数にどれほど通用するものか。
 人間とは比べ物にならないほど生命力の強い妖魔、鉄砲を物ともしないのがいることも承知している。しかし限られた兵で効率よく戦うには飛び道具は不可欠である。それに、効果はともかく援護があると無いでは前線の士気も大分変わってくるものだ。
「注進! 服部隊及び大久保隊が敗走! 前線は総崩れの模様です!」
 間も無く兵の一人が前線の惨状を報告にやって来た。未だ目立った動きをしているのは雑兵ばかりだが、その数があまりに圧倒的過ぎて屈強な旗本達も不覚を取らされてしまったようである。
「やはり正面からぶつかってはこちらが不利か。二の丸まで下がるぞ。ただちに二の丸へ大筒を用意せよ。三の丸を一度捨て、大筒で徹底的に焼き払う」
 榊原軍は妖魔の前線を引きつけつつ二の丸までゆっくりと下がり始めた。その稼いだ時間を使い、二の丸には大筒の準備が可及的に行われる。
「前線は下がったな。よし、全門撃てい!」
 仁之介の号令の元、次々と大筒は火を拭いた。二の丸から三の丸に向けて放たれる大筒の集中砲火は、異常な数でひしめいていた妖魔を驚くほど効果的に殲滅していった。しかしそれでも妖魔は進軍の勢いを緩めない。どれだけ集中砲火を浴び前線から順に吹き飛ばされても、まるで恐れる事無くひたすら前進に徹する。かつて戦国時代では、戦に敗北した大将を逃がすため敢えて戦場に留まった死兵がいた。生還の望みも無いというのに、ただ主君を生かすためだけに己の命を投げ出したのである。向かう方向こそ違えど、妖魔の雑兵は後続へ向けて血路を開いているのである。
「仁之介様、あれを!」
 その時、物見の一人が三の丸を指差しながら叫んだ。
 十門に及ぶ大筒の集中砲火に晒されながらも、全く怯む様子も無く吹き飛ばされながらも進軍を続ける妖魔の群れ。そのほぼ中央に、白い光を放ちながらゆっくりと前進してくる一人の妖魔がいた。その妖魔は明らかに砲火を何度も受けながら、白い光に守られているかのように平然と前進を続けて来る。白牙が現れたのかと思ったが、白牙よりも長身で尚且つ真っ赤な鎧を纏った武者姿から別の妖魔のようである。しかし、大筒を物ともしない妖魔の存在は脅威と言わざるを得ない。
 やがて砲門の傍まで辿り着いたその妖魔の武将は、徐に天へ向かって右腕を振りかざした。その右腕が激しく発光したかと思うと、そこには一本の大槍が現れた。穂先が身の丈ほどあるその異様な大槍を、妖魔の武将は右腕だけで軽々と振り上げ頭上で激しく旋回させる。そのまま充分に勢いをつけたところで穂先を砲門へと叩き付けた。まるで地震が起こったかのように衝撃で二の丸が揺れる。次の瞬間、砲門は塀ごと吹き飛んでしまうという非常識な光景がそこには現れた。
 妖魔は同じように他の砲門も次々と破壊していく。砲弾の雨は見る間に衰えて行き、反対に妖魔の進軍は勢いを増していった。妖魔は砲門が吹き飛ばされた隙間へ殺到し二の丸へ入り込み始める。
「いかんな……。全軍砲撃を止めて妖魔を迎え討て! 拙者はあの妖魔を討ち取る!」
 江戸城へ進軍する雑兵の群れのほとんどは、正門から一の丸までの間に大神実命の力によって焼き払われる。それでも二の丸まで辿り着く妖魔の数は、榊原軍と同数かやや上回るほどもある。個々の戦力差では遥かに榊原軍が上回るものの、圧倒的な物量からくる消耗戦に兵がどれほど耐えられるかは分からないのだ。
 単独で陣を飛び出した仁之介は、一息に塀を乗り越え妖魔の武将を急襲に掛かる。妖魔の武将は四半刻も経たぬ内に砲門を全て破壊し終えていた。周囲には砲火を逃れた妖魔の雑兵が無数に群がっているが、仁之介は単独で雑兵の群れを切り裂きながら突っ込んでいく。妖魔は次々と仁之介へ襲いかかって行くものの仁之介の刀は触れる事すら許さず、妖魔は飛びかかる傍から見えない壁に阻まれるかのように斬り捨てられていった。
「いざ、参るッ!」
 雑兵の群れを切り抜けて来た仁之介、それを見た妖魔の武将はゆっくり右手の大槍を振り上げると、そのまま群がる妖魔の雑兵諸共に仁之介へ目がけ叩きつけた。しかし仁之介は体を左側へずらして難無くそれを避け、大槍の穂先は妖魔ごと地面を抉るに終わる。すかさず妖魔は大槍を持つ手を逆手に持ち変え踏み込んで来る仁之介を払いにかかる。だがそれも読んでいた仁之介は右手を柄に添えると、襲いかかって来た大槍の柄を中程から一断ちにする。
 妖魔の武将を間合いに捉えた仁之介は柄に添えた右手を脱力させた。しかし刀を抜こうとしたその時、突然伸びてきた妖魔の武将の腕が伸びてくると正に抜こうとしていた右手を肘から押さえられた。すぐさま仁之介は左手で脇差を抜いて妖魔の腕を斬り落とす。だが間髪入れずに襲いかかって来たもう片方の腕を避けるべく、一時間合いを取った。
 妖魔は斬り落とされた腕を事もなさげに拾うと、そのまま元あった位置へ押し付ける。すると腕はそのまま繋がってしまった。仁之介は居合いの構えを取りながら慎重に出方を伺う。柄に添えた右手には若干の強張りが残っていたものの問題は無い。
 妖魔は再び右腕を抱え上げ閃光と共に大槍を出すと、柄を中程で持ち再度仁之介へ繰り出した。だが仁之介の体捌きはそれを遥かに上回り、あっさり大槍を避けると同時に放った剣で妖魔の首を落とした。
「討ち取ったり」
 しかしその直後、首を落とされた妖魔は腰の刀を抜き背後から襲い掛かってきた。仁之介は振り向きもせず、そのまま柄を握る右手を一瞬脱力させたかと思うと、次の瞬間には風鈴にも似た鍔鳴りが響いていた。妖魔は仁之介を斬りつける寸前の所で動きが止まり、やがて糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちていった。その様を仁之介は事も無げに一瞥し向きを変える。
「不覚は取らぬよ、拙者は二度と」