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「待て、貴様!」
「ここは女王様のお屋敷であるぞ!」
 初めの追手はたった三人の黄泉の役人だったのだが、いつの間にか数十名の武装した兵士に変わっていた。
「待てと言われても待てぬわ! 女王に謁見するのに二百年も待てぬ!」
 ひた走る仁之介は女王の屋敷へ向かって庭をどんどん進んでいった。
「女王は非常に多忙だと言っているだろうが!」
「二百年も待っては榊原家が途絶えてしまうではないか! 姉上を嫁に貰おうなどという物好きは日ノ本におらぬのだぞ!」
 後ろも振り向かずに叫び答える仁之介は更に足を速め、黄泉の兵をあっという間に引き離してしまった。
「む、あれが女王の屋敷だな」
 やがて仁之介の前に一軒の屋敷が姿を見せる。それは屋根から柱から壁から、全てが黒という非常に不気味な屋敷だった。黒い柱や壁は見た事があったものの、さすがに黒い障子までは見た事が無く、仁之介はその不気味な風体に眉間へ皺を寄せる。
 屋敷の玄関は広く開かれ、そこにはあの黒装束の列が続いている。そこから中へ飛び込もうとする仁之介だったが、しかし屋敷の中から武装した黄泉の兵が群れを成して飛び出して来た。そのあまりの数の多さに、一体屋敷のどこへ待機していたのかと目を疑ってしまう。
「此処を黄泉の女王の屋敷と知っての暴挙か!」
「神妙にいたせ! 手打ちにしてくれる!」
 黄泉の兵は一斉に刀を抜き仁之介へと襲い掛かってきた。
「三下に用はござらぬ!」
 仁之介は全く怯まず、その群れの中へと自ら飛び込んでいった。
 無数の黄泉の兵に対し、仁之介はたった一人。あまりに無謀な行動に思われたが、しかし仁之介は目にも止まらぬ抜刀術で次々と兵を打ち倒していった。幼いながら仁之介のあまりの強さに圧倒された兵は、徐々に尻込みを始めてしまう。黄泉の兵達が腰砕けになったと見るや否や、一気に中央を切り裂いて兵の群れを突破する。
「黄泉の女王は何処ぞ! 拙者、火急の用件があり参った!」
 屋敷に切り込んだ仁之介は、開口一番にそう叫んだ。屋敷の中は外からは想像もつかないほど広い空間が広がっていた。江戸城の大広間と比べ物にならない板張りの間が無限に広がっているのではないかと思わせるほど、どこまでも奥へと続いている。物理的に有り得ない光景ではあったものの、ここは現世ではないからそんな事もあるだろうと、仁之介はさほど気には留めなかった。黒装束の列はその果てしない奥へと向かってゆっくりと歩いている。この奥に黄泉の女王がいるとするならば、確かのこの調子では二百年もかかってはおかしくはないだろう。
「いたぞ、あそこだ!」
「おのれ、曲者め! 女王様の御屋敷へ無断で入り込むとは言語道断!」
 そして、何処に入り口でもあったのか屋敷中の至る所から黄泉の兵が溢れ出てきた。列の先を追おうとしていた仁之介は出鼻を挫かれた事に苛立ちを見せる。
「あくまで行く手を阻むか! ならば全て斬り捨てるのみ!」
 再び仁之介と黄泉の兵との戦いが始まる。数で勝るはずの黄泉の兵は、仁之介を取り囲み押し潰そうとするものの、片っ端から斬られていった。
 その時だった。
 突然、戦の中心部にどこからともなく白い稲妻が落ちる。それは丁度仁之介のすぐ目の前で弾け、仁之介は思わず目が眩み顔を腕で庇った。
「何の騒ぎだ」
 現れたのは、喪服姿の一人の女性だった。取り分け異様な雰囲気を漂わせており、大年増ともうら若い乙女とも見える不思議な容姿である。なんとも浮世離れしたただならぬ印象を受ける。
「黄泉の女王とお見受けする。拙者は榊原家が嫡男、榊原仁之介と申す者」
「貴様が騒ぎの原因か。して何用だ? ここは黄泉の国、黄泉の法に従わねば相応の裁きを受ける事になるが……待て、まさかお前は現世から来たのか?」
「如何にも。しかし黄泉の食べ物を食べ帰れぬので困っておるのだ。よって早急に日ノ本へ帰して貰いたい」
 女王は眉を潜め小さく息をついた。何故、死者でもない者が遥々このような所へやって来たのか、それが全く理解出来なかったのである。それに黄泉の食べ物を口にするのは死者ばかりであり、これまで生者が口にしたという前例は無い。そもそも生きている人間が来たこと自体が異例中の異例なのだから、俄かには判断しにくい複雑な状況になってしまったと女王は頭を痛める。
「仁之介とやら、黄泉のものを食べた者は常世の住人となってしまうのだ。それはつまり現世での生を終えたという事になる。現世に戻りたいそうだが、私には死んだ人間を生き返らせる力はない」
「拙者は死んではおらぬぞ。こうして自分の足で立っておるではないか」
「そうではない。お前は生きながら黄泉のものを食べたため、生きながら常世の住人になった。現世から見れば常世の住人は死者である。生者は現世、死者は常世で生きる事が理だ。お前に如何なる事情があるかは分からぬが、死者を現世に帰す訳にはいかぬ。そもそも、死者が現世で受け入れられるはずがなかろうに。既にお前は常世の住人なのだ、このまま大人しく黄泉で暮らすがいい」
「言っておる事が分からぬ。拙者を戻すか否か、それだけを答えて戴きたい」
 せっかくの説明もほとんど理解されていない事に、女王は呆れるばかりか考える意思もない様子に苛立ちを覚えた。女王の苛立った様子に黄泉の兵達は一斉に背筋を震わせ緊張した面持ちを見せる。しかし仁之介だけは、この状況を把握していないのかただ女王へ否応を迫った。
「だからお前を現世に戻す事は出来ぬと申しておる。お前はとうに常世の住人だ、みだりに現世へ帰しては余計な混乱を招く」
「ならば誰なら出来るのだ? 拙者は現世に帰らなければならぬのだ」
「この忙しい時に、物分りの悪い奴だ。出来ぬものは出来ぬ。諦めろ」
「それはならぬ。やって貰わねば困るのだ。榊原家の存亡に関わるが故」
「面倒な者が迷い込んで来たものだな。ならいい、いっそ今ここで殺し、改めて常世の住人として黄泉へ迎え入れてくれる。生を断てば現世への未練も無くなろう」
 すると女王はおもむろに右手を構えた。たちまちその手のひらには幾重にも白い稲妻が束ねられる。これがよほど驚くべき出来事なのか、黄泉の兵達にもどよめきが起こった。
「何をするつもりか?」
「お前を焼き殺すだけだ。なまじ肉体があるから未練が残る。おとなしくしていれば痛みは無い。一瞬で終わらせてくれる」
 女王は白い稲妻を束ねた右手をそっと仁之介へ延ばした。しかし、
「無礼な!」
 そう仁之介が叫ぶや否や、風鈴にも似た鍔鳴りが響き渡った。
「くっ!」
 女王は顔を苦痛に歪め、延ばした右手を引っ込め左手で押さえる。その間からはぽたぽたと赤い血が溢れ始めた。
「おのれ、無礼者!」
「女王様に手を上げるとは、この不届き者めが!」
 たちまち殺気立った黄泉の兵達は一斉に武器を構え、猛然と仁之介へと詰め寄った。だが仁之介は先に手を出したにも関わらず、むしろ更に不遜な態度に出た。
「鎮まれ下郎共! こちらの言い分も聞かぬばかりか、あまつさえこの非道な仕打ち、黄泉とやらは榊原十万石を愚弄するつもりか! 榊原家への侮辱は、引いては徳川家に対する謀反も同じ、たとえ黄泉の女王であろうと許されるものではござらぬ!」
 年端も行かぬ仁之介に凄まじい恫喝を受け、詰め寄った黄泉の兵達は思わずその場へ立ちすくんだ。殺気立った黄泉の兵達よりも、たった一人である仁之介の気迫がそれを上回ったのである。
 すると女王は不意に右手を上げ、戸惑う黄泉の兵達を下がらせた。女王の右手からは未だ赤い血がどくどくと流れ出ている。しかし女王は既にそれを構おうとしなくなっていた。
「貴様……この黄泉の女王に手傷を負わせるとは……」
「本来ならば斬り捨て御免と相成る所。その程度で済んだのは拙者の慈悲と思われよ」
「おのれ、この小童めが。付け上がるな……!」
 途端に女王は怒りも露な表情を晒し、まるで風に煽られた柳の如く髪を逆立て始めた。女王の周囲には小さく音を立てて破裂する、白い稲妻の塊が幾つも浮かんでいる。更には女王の圧倒的な気当たりのせいか、部屋の中には空気の渦が巻き起こり始めた。
「人間の分際でこの黄泉の女王に傷をつけるとは! 一体どうしてくれよう!」
 衆目も忘れ怒り狂う女王に、黄泉の兵達は一斉に我先にと逃げ出してしまった。しかし仁之介はまるで他人事のようにその様子を眺めながら首をかしげている。
「ふん、ここで貴様を殺すのは容易だが、私はこれ以上貴様の顔など見とうない。ならば望み通り、常世の生を受けたまま現世へ送り込んでくれる。死ねぬ苦痛に身を焦がし、現世の人間に疎んじられながら、せいぜい孤独にもがき苦しむがいい!」