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「ん?」
 ふと白牙は声を止め小首を傾げた。白牙が掴み上げる仁之介の首、そこを通る血の道に止まっていたはずの血の巡りを感じたからである。それは決して有り得ない事だった。仁之介の心臓が完全に止まったことは自分自身がはっきりと確認している。一度止まったはずの心臓が、全身を内から外から完全に焼き上げられてしまった人間が、息を吹き返すなどあまりに道理から外れる。だが、再び白牙の手のひらに血の巡る確かな感触が伝わってきた。それは俄かに早まり、はっきりとした心音も聞こえて来る。そればかりか、仁之介の真っ黒に焼け焦げた皮膚が見る間に剥がれ落ち始めた。剥がれた下からは真新しい白い肌を覗かせていた。
「そんな……まさか」
 見る見る内に白牙の表情が青褪めていく。信じられないものを見ているように、何度も首を振りながらぶつぶつと否定の言葉を繰り返し時折奥歯を打ち鳴らす。そんな白牙の異変に気付いた神弥もまた、うつむけていた顔を上げてその方を見やる。
 そして、
「ガハッ!」
 いきなり咳き込んだ仁之介。驚いた白牙は咄嗟に仁之介を突き飛ばすように離し、神弥も驚きを露に口元を押さえる。
「隙有り!」
 すぐさま仁之介は動揺して立ち尽くしている白牙の顔を殴り飛ばした。あれほど目にも止まらぬ体捌きを見せつけてきた白牙だったが、よほど驚き我を忘れていたのか、あっけなく仁之介に殴り飛ばされ背を強かに打った。
「ふむ、さすがにこれは利いたぞ。姉上に峰打ちで半刻しばかれた時以来だ」
 仁之介は無造作に真っ黒に焦げた顔を腕で擦る。焼けた皮膚はぼろぼろと剥がれ落ち、その下からは初めよりも小奇麗になった仁之介の顔が現れた。
 白牙も神弥も共に信じ難いものを目の当たりしたためか、驚きのあまり言葉を失っていた。白牙は仁之介を指差しながら何事かをうわ言のように呻き、神弥は堪えていたはずの涙を驚いた拍子に流し始めている。そんな中、仁之介は平然と肩を慣らし襤褸切れになった上着を破り捨て、残る焦げた皮膚を擦り落とした。
「なんで……お前、本当は化物なのか?」
 ようやく落ち着きを取り戻した白牙は、ゆっくりと立ち上がり口元を拭った。仁之介に殴られた拍子に切れた唇からは血が一筋流れ落ちてくる。本来、その程度の傷ならばすぐに癒えるはずだったが、拭った傍から血は再び流れ落ちて来た。白牙の疲労の具合がそこから見て取れる。
「妖魔に言われとうないわ。さあ神弥様は返して頂くぞ」
 刀は焼かれてしまった仁之介だったが、素手で構えながら堂々と白牙へと歩み寄ってくる。それに対し白牙は再び手のひらを仁之介に向けて対抗しようとするものの、得意の白い稲妻は出てこなかった。仁之介を焼き殺そうとした時に宣言した通り、既に余力は全て使い切ってしまっているのである。露骨に舌打ちし、奥歯をぎりぎりと噛み締めながら仁之介を睨みつける白牙。だが妖術を使えないと知った仁之介は、もはやただの子供に等しい白牙に対して一片の恐れも抱かなかった。刀と妖術、それぞれの得物が無くなったのならば勝つのは自分だという自信があるためである。
「榊原……仁之介。そうか、思い出したぞ。昔、黄泉の国に生者でやってきた子供が散々に暴れ周り母上に手傷まで負わせ、現世へ追放されたと聞かされた事がある。そいつの名前が榊原と言った。常世の住人には現世では死が訪れない。常世の生を生身で受けたのだから、どうやったって死なない訳だ」
「ようは分からぬが、そういう事でござる。あの時は若気の至りで申し訳ない事をしてしまったが、おかげで大変助かっておると女王には伝えて貰いたい。しかし、神弥様は返して頂く」
 余裕の無い表情で歯軋りしながら仁之介を睨む白牙。だがどんどん仁之介は近づいてくる。いつしか白牙はそんな仁之介に威圧感すら覚え始めていた。
「何故だ! 何故僕から神弥を奪う! これは正当な約束のはずだ!」
「されど、我が主君が首を縦に振らねば見過ごす事は出来ぬ。それに主君の姫君を守るのは家臣として当然の事」
「ふざけるな! 僕はお前よりも遥かにずっと神弥を見守ってきたんだ! 春は蝶に身を変え、夏は蛍、秋は蜻蛉、冬は黄泉でじっと春を待った! 母上から神弥の事を聞かされてから今日までの五年間、ずっとだ! 今日のこの日を迎える事に待ち焦がれて! それなのに何故! 何故お前達侍は、何度も何度も何度も僕の邪魔をする!」
 突如地団太を踏みながら叫ぶ白牙。そのあまりに子供染みた癇癪の様子を、仁之介は元より神弥すらも唖然として見ていた。白牙の口から放たれた意外な言葉に仁之介は思わず歩を止めてしまう。
「お主、よもや……」
 そう仁之介が何事かを口にしかけたその時だった。
 突然、鳥の妖魔は劈くような金切り声を上げると、激しく身を捩り始めた。
「む、何事か!?」
 大きく左右へ繰り返し揺れる足場、一同は思わず膝と手をつきながら重心を支え、この異変について周囲を見渡す。
「あれは!」
 そして仁之介の目に偶然飛び込んできたものは、鳥の妖魔の翼を真下から突き破って今正に飛び出したばかりの、巨大な鉤だった。飛び出した鉤は落ちる間際に翼をしっかりと噛み、鳥の妖魔へ絡みつく。更に良く見れば、同じような鉤が反対側の翼にも突き刺さっていた。そして鉤には長い縄のようなものが括りつけられている。