BACK

「くそっ……!」
 すべての力を使い果たした上に空から落ちて傷だらけとなった白牙は、江戸城から逃げ果たす事も出来ず遂には本丸に追い詰められてしまった。
 本丸だけでもあれほど溢れ返っていた妖魔の群れは、ほぼ全てが悉く討ち取られていた。更には妖魔を討ち終えた兵達が全て本丸へと集結している。つい一刻前ほどは妖魔で溢れていたはずの本丸は今や徳川の兵で溢れ返り、そしてその中心に白牙は立たされていたのである。
「さて、戦狂いがお前の背を見ているのだが、妖魔の王はどう出る? 一つ雪辱戦を申し込みたいところでござるな」
「前門には蒲柳侍だ。左腕は不覚傷を負ったが、まだ一太刀ぐらいは浴びせてやれる。大神実命の札つきの刀でな」
 何重にも包囲された白牙は、更に前後を狂次と蒼十朗に挟まれていた。その圧倒的な優勢、白牙は忌々しげに奥歯を噛み締め、逆に満身創痍であるはずの徳川方は誰しもが余裕に満ちた表情を浮かべている。
「しかし、あの稲妻は厄介だな。使われぬ内に討ち取ってしまうか?」
「その心配はございませぬ」
 不意にそう言って兵達の間から進み出てきたのは仁之介だった。上半身には一糸纏わずしかし腰には紀家の刀を差すという異様な風体だったが、仁之介は白牙の右手側に立って普段と同じ居合いの構えを取った。
「先程、白牙は拙者に用いた稲妻で打ち止めと自ら言っておりますが故」
「なるほど。その御姿、さぞや楽しい戦をしてきたのでございましょうな。実に羨ましい」
「今度は負け犬まで来たようだな、妖魔の王。どうした? 顔色が良くないぞ」
 皮肉をたっぷり込めてせせら笑う狂次。仁之介も笑みこそ見せてはいないものの、いつでも刀は抜けるとばかりに何度も鯉口を切っては音を立てて牽制する。そんな中、ふと蒼十朗が顔を他所へ向けた。
 蒼十朗が視線を向けた先では、白牙によって火を放たれた江戸城の鎮火作業が進められていた。既に火は粗方消しつくされ、今は燃えて崩れてしまいそうな危険部位を叩いて先に崩し始めている。そんな中、突如城内から大きな人影がぬっと現れた。大男は焼け落ちた柱や板を無造作に払いのけると、城の外へ真っ黒になるほど煤で汚れた全身を晒す。意外なところから現れたそれに唖然とする火消し達を尻目に、その大男は傍らに置いてあった桶を掴み、中の水を頭から被って顔を拭う。煤の下から現れたのは、紛れも無い勝往のものだった。
「各々方、今度は戦狂いよりも恐ろしい、木偶の坊が来たようだ」
 蒼十朗が指差したのその先、勝往は冷たい水を浴びて一つ息を吐くと思いきや、突如驚くほど大きな声で空を仰ぎ咆哮を発した。そのあまりに大きな男は本丸に詰めていた全ての兵の肌をびりびりと奮わせる勢いだった。そして勝往は何時に無く闘志に満ちた眼光を本丸へ向けると、鼻息も荒くのしのしと向かってきた。凄まじい迫力に自然と道を開ける兵達に譲られながらやって来た勝往は、三人に囲まれた白牙の左手側に立って腕を組み、どんと足元を踏み鳴らした。
「さて、王手だな。負けを認めるか?」
 遂に白牙は徳川四傑に四方を囲まれてしまった。狂次だけは武芸と縁はないものの、仁之介は瞬きをする間に三度斬りつけ、蒼十朗の斬馬刀は骨を易々と叩き折り、勝往の握力は石すらも握り潰す。兵力に換算すればとても百や二百では適わない。
「分かった、負けを認めよう……」
 遂に観念したのか、白牙は消え入りそうな小声でそう呟いた。
 むしろこれは敗北を認めざるを得ない状況である。白牙は既に力を使い果たし、助けてくれる味方も残っていない。その上、徳川切っての精鋭に取り囲まれては手の打ち様が無い。
「神弥の事はもう諦めるよ。江戸城には二度と兵を挙げない」
 またしても小さな声で呟いた白牙は、顔を伏せたまま踵を返し城外へと向かおうとする。しかし、すぐさま蒼十朗が斬馬刀を喉元へ当て踏み止まらせた。
「黙って帰すと思うか? 敗軍の将は打ち首と決まっている」
「そうだね。でも無駄だよ。そこの負け犬が死ねないのと同じ理屈でね。常世の住人は現世じゃどうやっても死なない」
「なら試してみるとしよう。仁之介殿も首を刎ねられた経験はござらぬ筈。首も無く死ねぬとはどのようなものか、一度見てみたいものだな」
「やめろ、蒼十朗。この者の処遇は上様がお決めになる事だ。差し出た真似をするな」
 狂次の制止に露骨な不服の表情を浮かべる蒼十朗だったが、逆らう訳にもいかず渋々刀を収める。
「して、上様。この者は如何いたします?」
 そう狂次の問いかける先では、いつの間にか大勢の兵に守られた紀家が神弥と寄り添いながら並んでいた。
 ふと白牙は、おもむろに神弥へ視線を向けた。それは驚くほど静かで悲哀に満ちた表情だった。そのまま白牙はじっと神弥を見つめ続ける。けれど神弥はそれに気付きつつも、視線を合わせる事が出来ず顔を俯けている。その様を紀家はじっと重苦しい表情で見ていた。
「良い、離してやれ」
 飛び出した紀家の言葉に、狂次は驚きを露に問い返した。他の兵達にもどよめきが起こる。
「宜しいのですか? 妖魔の王なのですよ?」
「構わぬ。元はと言えばわしが蒔いた種じゃ。一度ぐらい、情けをかけても良いはずだ」
「ですが、この事を恩に思うとは到底考えられませぬ。此奴は妖魔ですぞ?」
「良いのだ」
「しかし……」
 あくまで白牙を許すと言う紀家に狂次は、尚もこの機を逃すべきではないと食い下がる。白牙が再び兵を率いて江戸を攻めれば、その時は持ち堪えられるかどうか分からないのだ。ならば今ここで討ち取っておくのが最良の選択なのである。
「いいよ、狂次」
 紀家に詰め寄る狂次に制止の声をかけたのは白牙だった。突然口を開いた白牙に一同が視線を向ける。
「さっきも言ったけど、もう江戸に兵は挙げない。必ず約束するから。そもそも僕は、本気で神弥を嫁にするつもりじゃなかった。あれは母上が勝手に決めた事だ。元々僕は乗り気じゃなかった」
「嘘を吐くな。現に貴様はこうして神弥様をかどわかそうとしたではないか」
「……少しだけ、ほんの少しだけ夫婦の真似事だけ出来ればそれで良かったんだ。それですぐに帰すつもりだった」
「我らを愚弄するか! そのような戯言に騙されると――」
 狂次は声を荒げ白牙へ詰め寄る。しかし、
「狂次ッ!」
 突然大声を出して制止したのは神弥だった。神弥のそんな声など到底聞いた事の無い狂次は、面食らったようにそのまま萎縮し口を閉ざしてしまった。
 一同が静まり返る中、神弥は恐る恐る顔を上げ白牙の顔を見た。白牙はほんの僅か微笑み、神弥はぎこちなくも微笑んで返した。それが心地良く思ったのか、白牙は満足げに頷く。
 東の空がゆっくりと白み始める。夜明けが始まったようである。本丸にも徐々に日が差してきた。長い夜が明けた事に、兵達からは次々と溜息が漏れる。
「もう朝だ。僕はこのまま黄泉へ帰るよ」
 すると、白牙の体がおもむろに色を失い始めた。まるで空気の中へ溶け込んでいくかのような不思議な光景である。
「じゃあまたね、神弥」
 最後に白牙は神弥へ手を振りながら消えていった。しかし神弥は何も言えず、せめて応えようとぎこちなく手を挙げかけるものの、しかしその手はそのまま袖の中へ収まってしまった。