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 徳川幕府史上最大の危機が始まった。
 江戸城が炎上したとの報は瞬く間に日ノ本中へ広がった。たとえ表だけとは言えども、天下の徳川が本丸を守りきれなかったというだけで火の元を揺るがす大事件である。
 紀家にはこれまで以上の急務が山積する。幕府の再建だけでなく、この機に乗じて転覆を狙うような諸侯が無いか目を光らせなくてはいけない。迎え撃つにも徳川の兵は妖魔との戦で疲弊し切っている。当分は十分な警戒を行わなくてはいけない。そのため、仁之介や蒼十朗を初めとする旗本陣は当分の間も江戸に留まらなくてはならず、尚且つそれぞれの領地では周囲に警戒をさせなくてはならなかった。
 その日、仁之介は江戸の町を供もつけず歩いていた。
 妖魔との戦が始まって以来、江戸からは次々と人が流れ出ているが、未だに日中の活気は衰えていない。ただ、今は徳川の影響力が衰えているため治安も乱れやすい。町方同心も休む暇も無いほど取締りに追われている。
 妖魔との戦では実に様々な事があった。中でも最も大きな事は、何よりも父である榊原仁之真の死である。その代わりに得たものは何かと問われてみれば、未だその答えには自信が漲っていない。それは今後、自分が如何に徳川に尽くし榊原家を支えていくかにかかっているのだと仁之介は考えていた。
「あれは」
 不意に仁之介は見慣れた顔を見つけた。
 通り沿いにある一軒の甘味処、その軒先に神弥と華虎の姿があった。しかし、今日ばかりは更にその隣には勝往の姿もあった。
「皆様、また抜け出しておられましたか」
「こんにちは、仁之介」
「お前こそ、当主たるものが何を軽薄な行動を取っておる」
「いえ、当主ならばお隣にも。勝往殿は如何なされた? 甘味は苦手と思っておりましたが」
「まあ、その、なんだ。まだ戦での疲れが取れなくてな。お二方の護衛も兼ねて、致し方なく苦手な物を食しておるのだ」
 随分と歯切れが悪いと仁之介は首を傾げる。しかし勝往が無言のまま、勝往には小さすぎる器を小さな杓子で突付く様は何とも滑稽で、仁之介は勝往に悟られぬよう一人含み笑った。
「何にしても、今しばらくは御道楽もお控え下さい。江戸の町は荒れておるのです」
「仁之介、貴様はいつから意見出来るほどの立場になった?」
「姉上も御自分の立場を考えられた方がよろしいかと……」
 仁之介は溜息をつきつつ、傍の腰掛へ腰を落ち着けた。
「そうそう、仁之介。此度はあなたに命を救われましたし、褒賞を与えなければなりませんね」
「なんと、恐れ多い」
「信賞必罰ですよ。ねえ、華虎?」
 華虎は何を考えているのか分からぬ無表情で頷いた。少なくとも反対はしている様子は無い。
 仁之介は神弥の前で肩膝をつく。神弥は袂へ手を入れると、以前とはまた違った巾着袋取り出し封を開ける。中に入っているのはまたしても金平糖だった。神弥はそれを一つ取ると、そっと仁之介へ差し出した。
「大儀であるぞ」
「ありがたき幸せ」
 そんな仰々しい言葉を戯れに交わし、仁之介は両手でそっとすくうように受け取ろうとする。
 しかし、
「隙あり」
 その金平糖は突然目の前で横から割って入ってきた何かに掠め取られてしまった。驚いて顔を上げると、そこに居た一人の少年が見せ付けるように金平糖を口の中へ放り込んで見せた。
「本当、戦じゃないと油断してるよね」
「な……お主は」
 そう小生意気な笑みを見せる少年、それはあの白牙だった。身形こそ人間だが顔立ちはそのままであり、それを見誤るはずも無い。
「貴様、よくもぬけぬけと江戸に来れたな」
「丁度良い、ここで決着を付けてくれる」
 たちまち色めき立った仁之介と勝往は、刀に右手を添えながら白牙に詰め寄る。
「まあまあ、落ち着いて。単に遊びに来ただけだからさ」
 そう言って白牙は神弥の隣へ腰を下ろす。反対側の華虎は俄かに瞳孔を窄め忍ばせていた懐刀に手を伸ばすものの、すぐさまその手は神弥に押さえられた。
「二人とも控えなさい。これ以上の争いは無益ですよ。余計な遺恨を増やしてはなりません」
 神弥に言われた手前、刀を抜く訳にもいかず、釈然としないまま二人はすぐ傍の腰掛へ座った。
「今日は江戸の見物ですか?」
「まあ、そんなところだね。黄泉なんていても退屈だからさ。江戸には神弥がいるし、それだけで十分理由になるよ」
 神弥はおかしそうに微笑むものの、他の三人は苛立ちを募らせるばかりだった。一体どうして妖魔の王にこうも寛容になれるのか。それぞれ白牙に辛酸を舐めさせられた経験もあるため、一向に神弥の心情が理解出来なかった。
「ところで昼間でも平気なのですか?」
「僕はね。でもほとんど妖術は使えないから、その辺の子供と喧嘩してもいい勝負になるよ」
 仁之介は白牙の背中を見ながら、何度斬り捨ててやろうと思ったか分からなかった。あれは他ならぬ父親の仇である。仇討ちは武士の誉れで本懐、名誉ある事でもある。しかし、神弥と楽しげに談笑する白牙の姿を見ている内にその気は削がれていった。父親には申し訳ない事だとは思うものの、どうしても刀を抜くどころか算段さえも立てる気にならなかったのである。
 父上、親不孝な拙者をお許しくだされ。
 そう仁之介は祈りを込め空を眺めながら茶を飲み、
「仁之介、少し顔を貸せ」
 いかにも辛抱し切れなくなったという鬼の形相の華虎に声をかけられ、思わずむせた。