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 その一報に俺は、三度、同じ質問を繰り返した。
 両親が事故に巻き込まれたから、確認のため職員室へ来るように。
 教室と教科書が変わり、進級後初めて迎えた六限目の授業中の事だった。
 事故に巻き込まれたと言う事は、おそらく大怪我をしているに違いない。骨が折れたりしたらしばらくは入院もしなければならないだろう。まだ何も詳細を聞かされてはいないのに、職員室へ向かう短い間はそんな楽観的な事ばかりを考えていた。
 そんな俺を職員室で待ちかまえていたのは、どこか表情に影のあるネクタイを締めた男だった。誰かの父兄なのだろうか、そう初めは思った。しかし男は、自分は県警の刑事である事を俺に告げてきた。
 刑事が一体何の用だろう? 昨夜は久しぶりに休みを取って二人で遠出をすると言っていたから、普段なら絶対にやらないような羽目を外したのか。まさか親父は、飲酒運転でもしてしまったのだろうか? 
 意図も分からず小首を傾げている俺に刑事は一言、こう告げた。
 これから遺体の確認のため病院まで来て貰いたい、と。
 そこからの記憶はしばらく曖昧なままだった。何時教室からカバンを持ってきたとか、クラスメートには何と言って別れたとか、まるで記憶にはなく、気が付くと病院の駐車場へ降り立っていた。刑事に乗せられた車はパトカーでは無く普通の乗用車だったとか、そんなどうでもいい記憶が鮮明に残っている。
 病院には何度か親戚の見舞いで来た事があったから、多少は見覚えがあった。けれどその日は、職員が忙しそうに行き交う姿が頻繁に見られる裏口から通され、案内された先はエレベーターには行き先ボタンが無かったはずの地階だった。
 そこからまたしばらく記憶が曖昧になり、次にはっきりと覚えているのは、促された部屋のプレートに記された安置室の三文字。もしもそうなら、霊安室と表記すべきだと無言で強がり、さも何気ない仕草で中へ入り、それからまた記憶が曖昧になった。
 その日はもう限界だった。気を失いこそはしなかったが、直後にトイレに駆け込んで目眩がするほど何度も嘔吐した。実際のそれは、俺の想像とは大きくかけ離れていて、クラフトテープでも貼っているかのようにあちこちがおかしく変わり果てていた。それを見て嘔吐する自分、何故そんな酷い態度を取るのだと申し訳ない気持ちになり、何度も謝りながら俺は胃を空にした後も嘔吐し続けた。
 あの光景に繋がる連想をしてしまいそうで、俺は些細な足取りすら考える事が恐ろしくなっていた。だからその日はどうやって帰ったかも記憶が不明確で、寝る時もその後も翌朝も、まるで白紙に線を引くような軽微な作業をしている気分だった。
 しかし、いつまでも気を損ねている訳にはいかなかった。事故の翌朝にはすぐに少年課の刑事や区役所の児童担当なる人が次々に訪ねて来ては面談をさせられた。そこで決まって言われるのが、この先どうするか、身の寄せ先はあるのか、そういった生活の事についてだ。
 辛うじて高校を卒業するくらいまでの保険金は支払われるらしい。けれど、法的に成人するまでは保護監督者のような親権を代行する人が必要不可欠だという。とにかく法律でそう決まっているそうだった。
 両親は共に親戚縁者は無く、引き取り手と言われてもまるで心当たりは無かった。施設に入るにしても歳が行き過ぎている。選択肢は幾つかあるが、まだ病院から引き取りすらしていない昨日の今日で、そもそも自分自身の平素すら取り戻していないままで、そんな重要な事をすぐに決められるはずもない。そんな出足の遅さが更に事態を厄介なものにする。
 そして、半ば呆然としながら一日を過ごし、ようやく状況を受け入れ冷静さを取り戻してきた翌日の事だった。今日も学校を休む旨を担任に電話口で告げた後、不意に誰かが訪ねてきた。また区役所からか、それとも少年課の刑事か。そう思いながら玄関を開けると、そこにいたのは颯爽とビジネススーツを着こなした、一人の見知らぬ女性だった。
 彼女は水野と名乗り、恭しく一礼した。
 両親の知り合いか誰かと思ったが、それ以上の興味を持つ事もなく。俺は特に言葉も交わさず、また無気力になって部屋にこもった。だがその間、どういう訳か彼女は俺に代わってやらなければいけない事を全てやってくれた。両親の葬儀や保険金の受け取り手続き、役所への申請や大家への事情説明にいたるまで、気が付けば本来なら俺がするべき仕事は何も残っていなかった。
 彼女の存在は実にありがたかった。半死人のように無気力になって何かをやろうという意欲すら湧かない状態だったのに、彼女のおかげで俺は重要な判断や署名をするだけで良かった。それだけでなく、彼女は掃除に洗濯や食事の世話までしてくれて、何もしたくないと思えば本当に何もしなくても生活が成り立ってしまうほどだった。
 今更の事なのだが、俺は彼女と面識も無ければ何の接点も無い。何故俺の代わりに仕事をしてくれるのか、一体どうやって知り何のために代行してくれるのか、そもそもどこから来た誰なのか、まずはそれを真っ先に問いただすのが平常な人間の判断だ。だが俺はそういう当たり前の事をする意欲をすっかり失っていて、彼女は彼女で何も訊かずに俺がやるべき事をみんなしてくれるから、俺はすっかり甘え切ってしまっていた。朝、俺が起きるよりも早くやってきて、夜は夕食の準備を済ませてからどこかへと帰って行く彼女。何も考えたくなければ何もやりたくなかった俺にとって、必要な事以外は何も口にせず淡々と仕事だけをしていく彼女の存在は実に都合が良かった。
 だが人間として当然の反応で、そんな生活でも一週間も過ぎると、両親の急死のショックが薄れ始めて徐々に自分がどれだけ異常な状況下にあったのかを自覚し始めるようになった。何も考えたくないからと現実から目を背け本当に何も考えないでいた反動なのか、急に俺は一体自分に何が起こっているのかを意識するようになった。けれど人間は適度に考えていなければ、いざ考え込んだ時にのめり込むさじ加減を忘れてしまうもので、まともな推論の一つも出来なかった。
 彼女が訪ねて来てから丁度十日目の朝、俺は意を決して彼女を問いただしてみる事にした。
 何故、あなたは見ず知らずの自分を助けてくれるのですか?
 すると彼女はこう答えた。
 あなたは私の家が代々仕えている一族の血を引く方なので、これは当然の事です。
 微笑すら浮かべ答える彼女の言葉に俺は戸惑った。俺の理解力が不足しているのか、それとも思考能力がそれほどまでに退化してしまっているのか。彼女の言っている事の意味が良く分からなかった。
 分からない時は考えても仕方がないのだから、片っ端から問うしかない。俺は質問を続けた。
 あなたはどこから来たのですか?
 ここから遙か東の海上にある、白壁島という場所です。
 そこには俺の血縁に当たる人がいるのですか?
 あなたの母方にあたる祖母、御婆様がいらっしゃいます。私はその方の命でやって来ました。
 母は、その島の出身なのですか?
 そうです。事故の事で大変心を痛めており、孫のあなた様を是非とも引き取りたいと仰っております。
 俺は一度言葉を止めて考え込んだ。
 母はこれまで一度も自分の両親、つまり俺にとっての祖父母の話はしたことがなかった。だから三人だけの家族というのが当たり前だとずっと思っていた。でも本当は、母の母、つまり祖母はまだ健在で、父も母もその事は必要ないとばかりにずっと俺には黙っていたのだ。
 どうして両親はそれを俺に言わなかったのか。何か事情があっての事なのか。そんな疑問はあったが、俺はあっさり答えを出した。理由はとても単純で、これだけ世話をしてくれた彼女の住む所なのだから、きっと良い場所なのだろうと思ったからだ。
 分かりました、白壁島へ行きます。
 そう答えると彼女はにっこりと微笑んだ。どうやら本当に歓迎されている。何となくそう思った。
 今知ったばかりだけど、祖母がいるのなら是非会ってみたかった。それに母親の故郷も実際に見てみたい。どうせ親権者を立てるなら、血縁の方が良いに決まっている。島と付くからにはかなりの田舎なのかもしれないが、気持ちを落ち着けながらのんびりと過ごすには丁度良いだろう。
 決意を固めた俺は、彼女に最後の質問をしてみた。
 祖母とはどんな人ですか?
 すると彼女は微笑みを浮かべたまま淀みなく答えた。
 当主亡き後、御高齢ながらお一人で白壁島を取り仕切っておられます。