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 白壁島という場所は、幾つか電車を乗り継がなければ辿り着けないような辺境だと、名前から勝手に想像していた。だから手荷物を入れたボストンバッグには小説を三冊も上の方へ入れ、新幹線に乗る前にはスナックとペットボトルのお茶を一つずつ買い込み、時間潰し対策は万全のつもりだった。しかし実際の移動は意外にスムーズで、新幹線を降りてからバスで港へ向かい、そこから船ですぐだという。新幹線を降りてからが遠いものだと思ったが、朝一に家を出て昼過ぎにはもう海が見えていた。小説もまだ一冊目を読み終えていない。
 水野さんには予め道順を記したメモを貰っていたが、大方その通りの内容だった。物理的な距離は遠いのに、移動は驚くほど早い。白壁島とはそれほど田舎ではないのでは、と思ったが、ふと携帯を開いて覗くと圏外の二文字が表示されていて、時間はたまたまそうなっただけだと思い直した。
 今日は自分一人で白壁島へ向かっている。水野さんはまだうちに残っていて、アパートの引き払いなどの手続きに追われている。特に家財の処分には丸一日かかるらしく、俺だけが一足先に白壁島へと向かう事になった。
 間もなく終点に到着するアナウンスが流れる。普段は通学でバスを良く利用するが、バス停が港になっているのは初めて聞く名前だ。バスには運転手の他、自分しか乗客はいない。田舎だから過疎化が進んでいるのだろうと勝手な憶測をするが、単に日が真上に昇るような時間に港へ行く人間などいないだけなのだろう。
 窓の外には見慣れない田舎の風景が広がっている。目に付く建物はどれも二階建ての民家ばかりで、常に家と家の間が広い田畑で区切られている。コンビニなんて本来なら適当に歩いても必ず行き当たるほどなのに、ここには一つとして見つけられなかった。あるのは、明らかに経営者の苗字を取った個人商店くらいだ。
 そんな景色が続く中、少しずつ見え始めた海の色には安らぎさえ感じさせられた。あまり汚れていないのか、太陽の光を反射している水面は綺麗なエメラルドに見え、時折立つ白い波とうねりの中の泡は、写真の趣味は無いけれど思わずシャッターを切りたくなるような衝動に駆らせてくれた。
 本物の海など見るのは久しぶりの事で、俺はついつい窓の外へ何度も視線を向けてしまった。普段見慣れない光景を見たせいか、まだ両親の事を少し引きずっているせいもあり俺は感傷的で、次第に窓の外へ無意味に視線を固定する事が多くなってきた。やがて、このまま物思いに耽ろうと、もう少しで読み終えそうな小説を閉じてしまう。
 海をひたすら眺めている内に、ふと両親の事が脳裏に浮かんだ。特別海に関係する思い出がある訳ではないけれど、少しでも関連する事は残さず搾り取るように次々と浮かんでは消えていった。
 まだ実感が無かった。ちょっとした遠足気分で出かけていて、家に帰れば当たり前のように両親がそこにいる、そんな感覚だった。けれど落ち着いて記憶を辿れば、もうあの家は無い事は明らかで、元の生活には戻れない事を改めて認識しなければならなかった。両親は既に納骨が済んでいる。家財も思い入れのある一部を除いて、今日に水野さんが全て処分してしまう。俺は今後どういう立場になるのか分からないけれど、祖母の家に住所が変わるのだろう。苗字は見上のままだろうか。とにかく、これまで当たり前のようにあったものは全て過去の事になる。今日は遠足に行くのではなくて新しい生活の始まりなんだと、無理に言い聞かせてでも自覚しなくてはいけない。それはほとんど決別にも近い。
 やがてバスがゆっくり減速を始め、間もなく終点に到着する事が告げられる。俺は荷物をまとめ、小銭を確認してからバッグを肩に掛けた。
 窓からは、港とそこに隣接する白い建物が見えた。看板から察するに、白壁島と往復するフェリーの乗り場らしい。白壁島には船で行く事は知っていたが、正直なところ漁船のような屋根もない船を想像していた。こんな小綺麗な建物があるという事は、観光船のような船が行き来しているのだろうか。
 周囲はほぼ駐車場で、大まかに白線が引かれているだけだった。そのせいか海を背負う白い建物が余計に目立っている。対岸沿いには灯台も見えるが、あちらは駐車場どころか鬱蒼とした木々に囲まれていて、この乗り場を照らす以外の役目は無さそうである。
 バスはフェリー乗り場の建物の前で停車した。始発から終点分の料金を払いバスを降りると、バスは再び来た道を戻っていってしまった。このように一日中同じ道を行き来しているのだろう。
 次はフェリーの切符を買わなければ。そう思いながら建物へ向かったその時だった。正面のガラス張りの出入り口の真ん前に、一人の女の子が立っていた。それもただ待っているという訳ではなく、明らかにこちらをじっと見ている。多分、俺がバスから降りる辺りから見ていたのかもしれない。
 さて、何か注目されるような事をしただろうか。小首を傾げる俺に、彼女はおずおずと遠慮がちに口を開いた。
「あ、あの、見上さん……ですよね?」
「そうだけど。君は?」
「白壁島からお迎えに上がりました」
 そう一礼する彼女。どこか緊張した様子で、動作がぎこちなかった。俺には緊張されるような素養は無いはずと自分では思っている。だから彼女の如何にも恐縮しているような態度には、逆にこちらも恐縮してしまう。