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「わざわざどうも」
「どうぞ、待合室へ。まだ船が来るまで時間がありますから。あ、お荷物は」
「いいよ、結構重いから」
「すみません」
 彼女に案内されるまま建物の中へ入る。待合室はフェリー乗り場と屋根続きと言うよりは、フェリー乗り場の中に船着き場があると言った方が正しい構造だ。流石に船を丸ごとすっぽり収めるのは無理だが、屋根が先端まで続いているため雨も気にせず乗り込めるだろう。
 そして窓枠には、良く見てみると機密性を高めるためかゴムの仕切り枠が付けられている。まだ季節では無いが、待合室を出来るだけ暖めておくための工夫だ。という事は、冬は相当冷え込むのかもしれない。
 待合室には、係員の他には誰も人の姿は無かった。元々、島と本土とで行き来する人はあまりいないのかもしれない。けれど、島だけで必要な物が足りるのかも気になる。食べ物はともかく、嗜好品の類は足りているのだろうか? そんな事を考えながら、俺は待合室のベンチに彼女と並んで腰を下ろした。
「ところで、君の名前は?」
 バッグからペットボトルと取り出し、そう何気なく訊ねてみる。すると彼女は少しだけ表情を曇らせた。今、何かおかしな事を訊いただろうか? キャップを持つ指が僅かに止まる。
「その……」
「何?」
「そうですよね、やっぱり覚えてませんよね。いえ、何でもありません」
 さも気にするなと言わんばかりだが、うっすら自嘲さえ浮かぶ表情を見せられては、こちらも何でも無いと済ませる事は出来ない。俺はペットボトルを置き彼女の方へ向き直った。
「もしかして、前に会った事あったっけ?」
「あの、その……中学の時です。私、一年間だけ見上先輩と同じ学校にいました。見上先輩とは学年が一つ下なんです」
「えっ、本当に?」
「何度かお話したり、みんなとですけど一緒に遊びに行ったりもしました」
「そうか……そうだったんだ」
 正直な所、まるで思い出せなかった。確かに良く集団で遊びに行くのが好きだったし、同じ学校に限らず女子グループを掴まえて行くのも頻繁だった。現地調達、などと称してその日その場の勢いで繰り出した事も希ではない。そんな中の一人だとしたら、よほどの事が無い限り記憶には残るはずもない。少し軽率だったと俺は軽く目を伏せた。
「それと、その、卒業式の時なんですけど……私、見上先輩から制服のボタンも戴きました」
 そう言って彼女が見せたのは、確かに俺の通っていた学校の制服のものに見えた。もっとも、正確にボタンのデザインを覚えている訳でもなく、ただ学校の名前の頭文字が入っていたからそう判断したに過ぎない。しかし驚いたのは、そんなものをすぐに出せるよう、彼女が持ち歩いていた事だ。いつも持ち歩いているのか、今日俺が来るという事で持ってきたのか。どちらにせよ、そんな子の顔と名前も良く覚えていない自分が無性に腹立たしい。
「卒業式か。そういえば、確か誰かにあげたような記憶が、少しだけ」
「やっぱり覚えてませんよね……」
「いや、待って。なんか思い出せそう」
 俺はしばし顔をしかめながら記憶の糸を手繰る。卒業式の日の事など、ほとんど記憶には残っていない。一日一日を刹那的と呼べるほどに楽しむ事ばかり考えて生きてきたのだから、どの日の記憶も似通っていて結局覚えていないのだ。けれど、彼女の明らかに落胆した様子を目にして、思い出せないからと簡単に諦める事は出来なかった。意地でも思い出してやる。そう俺は必死で記憶を掘り起こし続けた。
「……待てよ。そうだ、思い出した。ナルミちゃんだ。そうだ、そうだよ。俺、自分でどこから転校して来たのって訊いたんだったよね? 確か、梅雨に入る前ぐらい」
 断片的にではあったが、運良く彼女の記憶を掘り当てる事に成功する。そして、彼女の表情は途端にうれしさを滲ませた明るいものに変わった。
「はい、そうです! 五月の二十日です!」
「日付はちょっと。でも、なんか聞き覚えのない所の出身だったなあって思ったんだよね。しかし、まさか白壁島がそうだったんだ」
「はい。白壁島と聞いても、普通は誰も知りませんから。だから私、あまり出身地とかの話をしたくなくて」
「あー、俺ってそういうデリカシー無かったからなあ。良くみんなからも、余計な事を言うなって言われてたからね。そういえば、下の名前は何だっけ?」
 彼女の事を思い出せたのだから、きっと俺は油断していたのだろう。
 自分では何気ないつもりだったその質問の直後、一度は明るさを取り戻した彼女の表情が再び曇った。
「いえ……下の名前がナルミです。苗字は高木、高木成美です」
「あ、そうだったんだ……ごめん」
 それは最初とは違って、胸に杭を打ち込まれるように衝撃的だった。またしても取り返しの付かない事を口にしてしまった。とにかく俺は毛穴が開くほど焦った。一度のミスならまだしも、二度も立て続けに繰り返してしまうのは、悪意を持っているからと思われても仕方のない失態だ。
 俺は彼女を傷つけてしまったに違い無い。元々おとなしそうだった彼女がすっかり口を閉ざしてしまい、俺もこれ以上言葉を続けられなくなってしまった。お世辞にも饒舌そうには見えない彼女は、話しかけてくる事もしなければ、それを期待する事も出来ない。結果的に訪れてしまった重苦しい沈黙が気まずくて気まずくて仕方なく、俺は喉も渇いていないのに何度も何度もペットボトルの蓋を開けては少しずつ口に含む動作を繰り返した。
 一体どうやって挽回し楽しい雰囲気を作り出そうか。
 何の解決策も思い浮かばないまま焦りを募らせていると、突然と海の方から空気を切り裂くような甲高い音が聞こえてきた。すっかり彼女の事で頭が一杯だった俺は不意をつかれ、思わず腰を浮かすほど驚きで背筋を痙攣させた。
「あ、今のって汽笛?」
「はい、船が来たようです。行きましょう」
 彼女は笑顔を浮かべながら立ち上がった。
 どこか無理をしている笑顔だ。そう見えるのはきっと、俺が彼女に対して負い目を感じているせいだろう。