戻る

 フェリーに乗るのは、小学生の時の遠足以来だろうか。
 船室にバッグを置き、早速デッキへ飛び出した。遠足の時はカモメなどが船に群がって飛んでいて、俺はおそるおそる菓子を持った手を伸ばし食べさせてみたりしたものだが。見渡す限り海鳥の姿は遠目には幾つか見えるものの、どれもこちらに近づいてくる様子は無かった。おそらく今まで餌を与える者がいないから、初めから見向きもしないのだろう。
 カモメとじゃれ合いたかったが、近づいてくれない事には仕方がない。天気も良く風もさほど冷たくはないため、俺は適当にデッキをぶらつきながら景色を眺めた。
「見上さん、寒くはありませんか?」
「いや、大丈夫だよ。丁度良いくらい。ところで白壁島まではどれくらいかかるの?」
「三十分ほどです。今日は凪なのでもっと早く着くと思いますよ」
 フェリーで三十分なら、地図で見る分にはさほど本州から離れてはいないだろう。しかし人間が自力で泳ぐには無謀な距離だろうし、交通の他にも電気や水道といったインフラ事情も全く勝手が違うはず。そんな僻地で生活しているのだから、都会生まれ都会育ちの身としてはとても想像に難い。
 収容人数は三十名とラベルには記されていたフェリーだが、乗客は自分達の他にはいない。果たして採算が取れているのだろうか、と疑問に思ってしまう。一部の人が生活に必要だから採算度外視で動かしているとも考えられるが、そんな事をしなければならないほど交通事情が良くないのだろう。
 本州から離れた島なのだから、生半可な田舎では済まない所かもしれないし、そうとなれば生活様式にもかなりギャップがあるだろう。今更だが、本当に馴染んでいけるかどうか不安に思う。
「あ、そうだ」
 ふと俺はポケットから携帯を取り出して開く。友人との連絡を取るために必要だろうと解約せずそのまま持ってきたのだが、普通に考えてとんでもない田舎の孤島など完全に圏外ではないだろうか。通話もメールも出来ない携帯など単なるカメラだ。
 しかし、
「あれ?」
 予想とは異なり意外なものを目にし、俺は小さく声を上げる。
「見上さん、どうかしましたか?」
「いや、成美ちゃん。あのさ、これ見てよ」
 俺は携帯の画面を彼女へ見せる。成美はしげしげと顔を近づけた。
「あ、これ少し前に発売されたモデルですよね」
「そうじゃないってば。ほら、ここ海の上なのに三本立ってる」
 周囲を幾ら見渡した所で、そこの大半を占めるのは白い波の立つ海である。携帯の通信の仕組みなどほとんど分からないが、中継局やアンテナの無い場所では繋がらない事ぐらいは経験則から知っている。海上など、陸の近い所ならともかく、完全に湾外に出た場所では圏外になるだろうと想像するのが普通である。海の上にまで中継局を建てるとは思えないからだ。
 しかし成美は、俺の驚く理由が理解出来ていないらしく、さも不思議そうに小首を傾げた。
「ええ、そうですね」
「なんで? っていうか、驚かないの?」
「白壁島でも普通に使えますよ。それに、ここは島との連絡航路ですし」
「いや、普通は海で使えないんじゃないの?」
 俺と彼女とで生活環境での常識が異なるらしい。
 それに成美もすぐに気づいたらしく、短く納得の声を上げた。
「では、少し白壁島についてお話いたしましょうか? それで理解して戴けると思います」
「うん、まあ、良く分からないけど。理由があったら知りたいな」
 すると成美は少し外すと告げて船内へ駆けていった。間もなく戻ってきた彼女から一冊の冊子を手渡され、それを受け取る。冊子のタイトルは、白壁島観光ガイド。どうやら観光客向けの案内冊子のようだが、手触りといい色褪せ具合といい発行から随分経っている。観光収入は今では当てにしていないようだ。
 俺は成美に促されて早速ページをめくった。最初のページには島の航空写真が掲載されていた。その次のページには冊子の目次があり、成美は真ん中ほどにある産業の項目を指定してきた。
「白壁島は主に石灰を中心に経済が成り立っています。採掘した石灰石を加工や精製しそのまま港から海路で各地へ輸出します。陸路よりも費用がかからないので、普通の採掘地よりとても有利なんですよ」
「石灰って、校庭に引いたりするあれ?」
「はい。でも、実際は色々な分野で使われるんですよ。製鉄や食品加工に利用されもします。あまり目立ちませんけど、生活に非常に密接しているんです」
「じゃあ白壁島って石灰がかなり採れるんだ?」
「露出した岩山などほとんど石灰石ですから。ほぼ無尽蔵とまで言われるくらいです。最初の方にある写真を見ていただくと分かりやすいですね。特に本州側からは真っ白な岩肌が壁のように迫立って見えるので、白壁島と名前がついたそうです」
 最初の航空写真に戻り、島の色や形を確認する。丁度島の半分ほどが、確かに空からでもはっきり分かるほど白い岩肌が目立つ山岳になっている。おそらくここが採掘場なのだろう。そして島の端にある大きな港、クレーンらしき鉄の柱や大きな照明も立っているから石灰はここから運び出すに違いない。
「石灰だけでも白壁島は十分に潤っていましたが、実は石灰石の他にもゲルマニウムが盛んになり始めてます。ここ最近の話ですが」
「ゲルマニウム?」
「昔はラジオの部品などに使われていましたが、最近ではシリコンと加工して携帯電話の部品になるそうです。本来は不純物が多くて精製コストがかかりますが、白壁島で採れるゲルマニウムは純度が高くて精製コストが安く済みます。それで市場価格より安く売っても利益がかなり出て来るんです」
「携帯の部品って、そんな小さなもので儲かるの?」
「価値はともかく需要は高まっていますから。案外一時的なものかもしれませんけど、国産神話は未だに強いので。それで携帯の通話エリアの事なんですが、多分その辺りの関係だと思います。白壁島の影響力は小さくは無いそうですし、配分を多くして貰うため企業の方から整備してくれたとかしないとか」
「ともかく、そっち関係のメーカーにはそこそこ口利き出来るからって事か。凄い話だな。そういえば、ゲルマニウムって事は温泉なんかあったりする?」
「いいえ、地脈の関係上ちょっと」
 それは残念と肩をすくめて見せると、成美は口元を隠し控えめに笑った。これでさっきの失態は紛れるだろうか。俺もこの和やかな雰囲気を出来る限り壊すまいと、自分の言動全てに注意を払う。
「でも成美ちゃん、随分詳しいんだね。この冊子より詳しいんじゃないの?」
「私の家は、緒方家に仕えている家系ですから。兎角、島の事については小さな頃から教え込まれるんです」
「緒方?」
「白壁島を取り仕切る一族の名前です。見上さんは緒方の血筋を引いているんですよ」
 そういえば、まだ自分の引き取り手となった祖母の名前は知らなかったのだった。そんな島の代表の一族の名前を知らず、危うく島入りする所だった。今度は成美の機嫌を損ねる程度では済まなくなるため、俺は緒方の名前を深く胸に刻み込んだ。
「じゃあ俺の母さんの旧姓って緒方だったんだな。しかし驚きだな。緒方家っていうのが島を取り仕切るって、まさか良いとこの御嬢様?」
「有体に言えば、そういう事になります」
「やっぱりみんな緒方家に逆らえないとか、そんな構図なのかなあ」
「いえ、私を含め皆さん緒方家のおかげで平穏な暮らしが出来るのですから」
 遠慮がちに答えるのは、流石に砕け過ぎた口調を使うのは躊躇われるからだろう。だが、今まで存在すらも知らなかったような俺にさえ威光らしきものがあるなら、その緒方家というのは相当な権力を持っているのかもしれない。権力とは往々にして従える人間の数に比例するものだ。緒方家が白壁島を取り仕切っているというのは、必ずしもリーダーシップを発揮しているという意味ではないのかもしれない。水野さんは、緒方家は祖母が一人で仕切っていると言っていた。つまり、白壁島という場所を実質支配しているような人でもあるのだ。
 一体俺の祖母とはどんな人物なのだろうか。それは成美に訊けば手っ取り早いのだけど、俺はあえてそれをしなかった。成美にとって答え辛い質問になるかもしれない。そんな予感があったからだ。