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 フェリーが着くのはてっきり冊子で見たような大きな港かと思っていたが、停泊したのは乗る時よりも古くこじんまりとした小さな船着場だった。管理人らしい老人が一人いるだけで、後は乗客だった俺達しかいない状況が余計に寂れた雰囲気を演出する。閑散という生易しい表現ではない。本当に、他に誰もいないのだ。
 成美から緒方の家が白壁島においてどれほどの存在なのか聞かされていたから、島中の人間が出迎えたりするのではと想像していた。しかしそれはとんだ自惚れだったらしい。
「どうぞ、見上さん。こちらです」
 成美に促され、船着場を後にする。船着場の外は駅前のタクシープールのように楕円の形に道が舗装されていたが、そこにはタクシーなど一台も止まってはいなかった。バスの停留場があり、そのすぐ側に古ぼけたベンチとそこに座る老婆が一人、うつらうつらと船を漕いでいる。それ以外に動いているのは空の雲ぐらいで、車通りはおろか人の行き交う姿さえ無い。
「家まではどれくらいかかるの?」
「三十分程です。ハイヤーを呼びましょうか?」
「いや、それぐらいなら歩いてみるよ。島の様子とか知りたいから」
 あまりに想像通りの光景に圧倒されてしまって、俺は反射的にそう答えた。成美はその程度歩く事は日常的らしく、そうですかと一言だけ答え先立って歩き始めた。俺もすぐにその後に続く。
 船着場の敷地から出ると、一本の舗装された道に出た。随分補修を繰り返しているらしく、アスファルトの色が斑模様になって凹凸も激しい。二車線の道路のようだが車線は無く、道にも道路標識は一切立てられていない。道の左右はほとんどが切り開かれていない林で、時折何の目的で建てられたのか分からないようなプレハブがあるぐらいだった。
 実に見事な田舎そのものだ。白壁島の第一印象はまさにその一言に尽き、ようやくそれを深く噛みしめた。
 町と村の境界線ほどの栄え具合で、少し歩いた範囲だけでもむき出しの土や砂利が敷き詰められた道路が珍しくない。建造物はほとんどなく、一定の間隔で立っている電柱だけがやけに目立つ。その電柱も薄ら汚れ、注意喚起のために付けられたカバーもあまりに汚れすぎて何色と黒だったのか見分けがつかない。そして何より決定的なのが、あまりに人がいなくて静か過ぎる事だ。道とは人や車がいるのが当たり前の事だっただけに、この人気の無さはとても現実味が湧かなかった。
 タイムスリップでもしたかのような凄まじい田舎に来たと笑うのも束の間、何気なく携帯を開けばそこにはいつも通りの良好な電波状態が表示されている。人間が住めるのかどうかも分からないような未開の土地に、文明の象徴とでも言うべき携帯の通話圏が存在しているのだ。本当に通じるのか、誰でも疑いたくなるだろう。
「見上さんにしてみたら、凄い田舎に見えますよね?」
「まあね。コンビニとかもぱっと見、無いもんな。ってか、どこに人住んでるの?」
「この辺りはまだ島の端の方ですから。林を抜ければすぐに開けてきて、家や店が見えてきますよ。それにコンビニも一応あるんですよ」
「ふうん、ある事はあるんだ」
「零時を過ぎると閉じてしまいますけど、三軒だけ。田舎ですから」
「え、三軒?」
「はい、三軒です」
 これだけ田舎なら、たとえ二十四時間営業ではなくとも一軒もあれば上出来と思っていただけに、その数字には流石に驚いた。確かに、時折コンビニが妙に密集しているような場所は見かける事があるけれど、それはあくまで経営が維持出来るほど最低限の集客が見込めるから可能な芸当なのだ。こんな客の限られた田舎の島で三軒も出店したら、互いに首を絞め合って共倒れになるだけである。そもそも、そんな土地に親会社が出店を許可しないはずだ。
 まさか、ここにも白壁島の影響力があるのだろうか? それとも、コンビニと銘打ったただの個人商店か?
 そんな好奇心をふつふつとたぎらせ始めた。
「おっ」
 これまで全く人通りの無かったこの道、その丁度向かう先のカーブの影から人影がのろのろと現れた。それは腰の曲がった一人の老人で、やや厚めの帽子と上着を着込み、曲がった腰でバランスを取るため杖をつきながらゆっくり歩いている。船着場に用事があるのかどうかは分からないが、これほど危なっかしい足取りで果たして目的地へ辿り着けるのかどうか、あまりに不安だ。
「危ないなあ、あれ。後ろからいきなり車が来たらはねられるぞ」
「大丈夫ですよ。この島で走る車は、ほとんどハイヤーか石灰の運搬用ですから」
「自家用車はあまり走ってないのか。ところでハイヤーって何?」
「え、知りませんか? 乗った距離に応じてお金を払う車です」
「ああ、タクシーの事か」
 そんな話をしながら歩いていくと、やがて老人は俺達の近くまでやってきた。そこでようやく自分の前に誰かが歩いてきた事に気づいたらしく、はたと顔を上げてこちらの様子を窺う。
 年寄りだから目も悪いものだろう。俺はさほど老人の行動を気にも留めず、取りあえずの愛想笑いだけを浮かべた。
 しかし。
「ああっ、失ンヅ礼しました」
 老人は突然訛りの強い言葉で詫びると、慌てて道の端へ駆け込んで俺に道を譲った。そして痛みもあるらしい膝を苦悶の表情で折り曲げて地面につき、帽子を取り深々と頭を下げる。そして手を合わせ何かぶつぶつとお経のようなものを小声でつぶやき始めた。
「え? あ、ちょっと、急に何?」
 道をのろのろ歩く老人を邪魔と思った事は無い、と言えば嘘になる。けれど、だからと言って、口汚く罵ったり、実力行使で道を開けさせたりなど、俺は一度もしたことがない。そんなものは道徳心以前の問題だからだ。そのため、老人の行動は完全に虚を突き俺を酷く慌てさせた。老人が自ら進んで道を譲り、痛む膝を酷使してまで俺に頭を下げ、手のひらを合わせている。何故こんな事が起きているのか、とても俄には理解する事が出来なかった。
「見上さん、行きましょう」
「な、待ってよ成美ちゃん。ちょっと」
 こんな状況にも関わらず、成美は老人に一礼し俺の袖を引っ張って先へと進む事を促す。確かにこんな状況ではあまり留まりたく無かったが、果たしてこの老人をこのまま捨て置いて良いものか。そんな疑問を持ち戸惑っている俺に成美は、この島では当たり前の事だから、と言わんばかりの視線を返した。事情は分からないが、少なくともこの場は成美に従った方が良いらしい。俺はやむを得ず成美に引かれるまま先へ進んだ。
 しばらく早足で歩き続けた後、ここまで来れば良いと成美が手を離す。後方の老人の方へ視線を向けてみると、ようやく覚束無い足取りで立ち上がった直後の様子だった。既に老人の視力では見えない程離れているらしく、こちらの姿は視界に入っているはずだが老人は何の反応も示さなかった。
「ねえ成美ちゃん、今のって何? 俺、何かした?」
「いいえ、あれはこの島の習慣なんです」
「習慣?」
「昔から緒方家の人間は白壁島の守り神と言われ、島民から敬われていたんです。ですから、守り神に対して失礼な事をしてはならないのです」
「じゃあ俺、拝まれてたの?」
「そういう事になります」
 現人神という普段は絶対に使わないであろう単語、近代史の教科書で目にしたそれが不意に脳裏を過ぎった。しかし、まさかこの自分がそんな扱いを受けようとは思いも寄らなかった事である。ただ、やたら人を自分の下へ付けたがる人間はいるし、今まで俺はその心理が理解出来なかったが、何となく今はそれが分かるような気がした。確かに見知らぬ人にまで傅かれるのは気分が良い事だ。
「今日俺がここに来るって、一応島中に知れ渡ってるんだ?」
「それはもう。何せ緒方家の血筋ですから。ただ、伝統的に緒方の神様を祀る時は決して大騒ぎはいたしません。敬意を払う事は当然ですが、現人神ですから基本的に人間と同じになります。緒方家の人間は代々大騒ぎする事が苦手でしたから、極自然に接しながら敬意を払うのが最上となりました。ただ、今日は緒方家の御令息がいらっしゃる訳ですから、本当は島中の人間が一目拝見したくて仕方がないんです。今の方は案外その気持ちを抑えきれなかったのかもしれませんよ」
 船着場に人が大挙して歓迎してくれなかったのには、そんな背景があったからなのか。
 騒がしい事を嫌う神様も珍しいが、本来なら粛々としているべきものなのは同意出来る。ただ自分自身、騒がしい事をむしろ好む性格だから、果たして島の人達を幻滅させずに済むかどうか不安で仕方が無い。特に今の老人の過剰とも言える反応、もしも島中の人間が俺に対してああ振る舞うともなれば、非常に身の置き場に困る。俺のような軽薄さの見本とも言える人間には、白壁島の習慣に対して不安を覚えて仕方ない。
「そういえば成美ちゃんは拝まないの? 俺のこと」
「その……深く信仰しているのはお年寄りばかりですので」
「若い人ほど形式化してるって事ね。まるで、季節ごとの行事みたいな存在だな。なんか神様って言うより、墓参りか仏壇に近いんじゃないか」
 若い人ほど簡略化してくれるなら、その方が気楽で良い。老若男女問わず今のような反応をされれば、とても気が休まりそうにない。