戻る

「おい、誰がいねが」
 祖母が部屋の外へ声をかける。すぐに戸が開くと、外に待機していた成美は中には入らず板の上で深々と座礼する。勝手に中へ入ってはいけない決まりなのだろうか。そう俺は思った。
「ああ、成美か。お前、裕樹の部屋知ってすぺ。これがら部屋さ連れでげ」
「承知しました」
 成美は淀みなく答え、座したまま軽く向きを直すと今度は俺に向かって深々と座礼する。場を選んだ行動なのだろうが、何となく他人行儀だと疎外感のようなものを感じる。成美の性格上、祖母の前で普段の調子で嬉々と俺と会話する方が不自然だと分かってはいるが。
「じゃあ、ばあちゃん。また後で」
「夕飯の時になあ。それまでゆっくり休まい」
 俺は最後に祖母に一礼だけし、部屋を出て中履きへ履き返る。そして傍に置かれていた自分のバッグへ手を伸ばす。
 それは日常でも良くある何気ない行為のはずだった。俺自身もあまりに当たり前過ぎる行動のため、それを別段意識すらしていなかった。しかし、手が触れようとした正にその時、それは起こった。
「成美、何ぼさくさってるが! 早ぐ持で!」
 突然祖母が声を荒げ成美を一喝した。
 俺はあまりの驚きに息を飲み、その場に硬直した。突然の祖母の怒声、それは今の短い会話の中で認識した祖母の性格からは想像も付かないほどかけ離れていた。そもそも、こんな年寄りのどこからこれほどの声量が出てくるのか、それだけでも十分驚くべき事である。
「し、失礼しました」
 成美は血相を変え慌てて俺のバッグを持とうとする。しかしそれは、どう考えても成美が楽に持てる重さではない。無理をしなくていい。そんな気持ちで俺は成美より先にバッグを取った。
「いや、いいよ。結構重いから俺が持つって」
「え……その」
 女の子に重い荷物を持たせるのは悪い。俺が考えているのはただその一点だった。しかし成美は明らかに困惑の表情をしていた。俺が先にバッグを持ってしまった事で困っている、そんな素振りだ。
「成美、何しでる。おれの孫に荷物運ばせるつもりが」
「は、はい。ただいま」
 成美が俺に視線を向ける。こういう事だから、と訴えているように見えた。
 俺の好意はかえって成美を困らせるらしい。
 この状況で分かるのはそれだけだったが、バッグを手放すには十分な理由だった。俺はゆっくりバッグを置き、入れ替わりに成美が持ち上げる。背中をそらし全身の力を使ってどうにか持ち上げる成美。予想通り、楽に持てる重さではない事は明白だ。しかし祖母は、その不自然な姿を満足そうに見ている。
「それじゃあ、ばあちゃん。また今夜」
「ああ、またなあ」
 一礼し戸を閉める。これで祖母の視線は遮られるのだが、成美は未だ見張られているかのように硬い表情ままでバッグを持っている。決して重みに耐えているだけでの表情ではない。
「裕樹様、それでは御案内いたします」
 そう成美に促され、俺は咄嗟に声が出ず無言で二度頷き返した。
 成美の後に続き、再び屋敷の中へ入る。広い廊下の真ん中を二人で進む訳だが、時折遭遇する他の使用人はこちらを見ると皆一様に隅へ寄り深々と頭を下げて硬直してしまう。誰一人、重いバッグに苦戦する成美を助けようという素振りを見せなかった。与えられた仕事は自分でこなさなければいけない。そんな掟でもあるかのように俺には見えた。
 成美は顔を真っ赤にして歯を食いしばりながら俺のバッグを運び続ける。先程とは違い、成美は廊下だけでなく階段も登る。目的地は上の階にあるようだが、俺は成美の方が気になって仕方なかった。
 またしても、両親と行った温泉旅館の事を思い出す。旅館に着くと荷物は運んでくれるのだが、それは男の仲居の仕事だった。
 もうここまでで良いよ、と声をかけ、バッグを自分で持ってやりたかった。しかし、それを思う度に脳裏を先程の祖母の怒声が駆け抜ける。俺が手を貸せば困るのは成美なのだ。規則なのか慣習なのかは分からないが、とにかくこの家ではそういう構図なのだ。替わってやりたいが替われない。そんなジレンマに俺はやきもきする。
「お疲れさまでした。どうぞこちらです」
 ようやく到着したのは、屋敷の三階にある見晴らしの良い角部屋だった。丁度部屋の角が南を向いていているため、どちらかの窓から一日中日が差し込んで来そうな明るい部屋である。
 室内は純和風で真新しい畳の良い香りがした。良く分からない掛け軸や花を生けた花瓶がインテリアとして置かれているが、自分には格調が高過ぎると思う。勉強机は窓際に用意されていたが、和室に合わせたのか正座して向かうローテーブルだった。それが唯一気に入らなかったものの、突然やってきた居候のような身分にしてみれば十分に贅沢な部屋である。
「お荷物はこちらに置かせて頂きます」
 成美は俺のバッグを最後まで丁寧に部屋の一角へと下ろした。あの重いバッグを運ぶのは、女の子には相当な重労働である。成美は華奢な肩を小刻みに上下させ額にはうっすら汗を浮かべている。
「なんか良く分からないけど、運ばせちゃって御免ね」
「いえ、荷物持ちは使用人の仕事ですから」
「でもさ、幾ら何でも重過ぎたでしょ。そうだ、ちょっと見せて」
 俺はおもむろに成美の傍に寄り手を取った。案の定、成美の手は重い荷物を無理に運んだせいで赤黒く鬱血している。力み続けたせいでの強ばりもあり、俺は軽く指で押しながらそれを揉みほぐした。
「大丈夫? 痛くない? 一応冷やした方がいいよ」
「い、いえ! 大丈夫です。これぐらいはいつもの事ですから」
「そう。でもさ、今度からはなるべく自分でやるようにするから。ばあちゃんにバレなきゃ大丈夫なんでしょ?」
 成美は肯定も否定もせず、少しだけ困ったように微笑んで返した。否定しないのは肯定の意味で、角が立たないようにするための配慮だ。そう俺は勝手に解釈する。
「あ、あの、そろそろ手を……」
「ああ、ごめん。でも成美ちゃんの手って綺麗だね。細くて爪の形も可愛いし」
「そ、そうでしょうか」
「そうだよ。あ、別に俺、いつもこんな事ばっかり言ってる訳じゃないからね。いや、ホントに」
 成美は恥ずかしそうに俯きながらはにかむ。俺の言った事を真に受けているのか、単に聞き流しているのか。とりあえず、あまりお目にかけないような初々しい反応に俺は、ほうと小さく感嘆の溜息をつく。
「私、そろそろ自分の持ち場に戻らないといけませんので。ここで失礼させて戴きます」
「そっか、引き止めてごめんね。そうそう、ばあちゃん居ない所だったら普通にして頂戴ね。裕樹様とか、あれ正直勘弁だわ」
「はい、分かりました。見上さん」
「そんな感じでね。今度時間あったら思い出話でもしよう」
 成美はにこやかな表情で即答し、最後に一礼して部屋を後にした。
 良い感じの子だ、と思い、ふと俺はある事に気が付く。よくよく思い返せば、成美の存在など今日まですっかり忘れてしまっていたのだから、今更語る程の思い出話などあるはずが無い。成美はそうと知らずに返事をしたのか、知っていながらも気を使って返事をしたのか。どちらにしても、また自分は軽率な事を言ってしまった事に変わりは無い。