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 バッグには当面の着替えと身の回りの物を詰め込んでいる。まずはこれの整理から始めるべく、中身をひっくり返す。
 小説やメモ具、携帯の充電器といった小物は勉強机へ置く。部屋には他に物を置くような場所はなく、もう一つコタツテーブルのような物が欲しいと思う。後で祖母に言って余っている奴を貰えばいいだろう。
 部屋の角には如何にも伝統工芸といった高価そうなタンスがあり、着替えはそこへ入れる。しかしタンスの収納量の方が圧倒的に多く、引き出し三つで収まってしまった。別途送った荷物にはまだ着替えはあるが、それらを入れても余裕があるだろう。幾つかアクセサリーの類もあるが、このタンスに入れるのはあまり似合わない。いや、そもそもこの家の雰囲気自体に相応しくない。祖母の事もあり、あまり派手な格好はしない方が無難なのかもしれない。
 一つ安心したのは、部屋の中に着替えを入れる所があるという事は、玄関で集団で靴を履き替えさせられたように、使用人達に服を着替えさせられはしないだろう、という事だ。そんな恥ずかしい状況など願い下げである。
 バッグの中身が片付くと、今度は部屋のレイアウト決めを始めた。軽く部屋を見渡し、まだ届いていない分の荷物も含め配置図を思い描く。しかし前の自分の部屋に比べ倍近い広さがある上、家財も幾つかは処分してしまっているため、明らかにスペースを持て余してしまう。
 どうせ荷物は大した量ではないから、届いてからで何となく決めればいい。ずっと気になっていた足の裏の痛みもあり、急に倦怠感を感じた俺は早々に配置図を諦め畳の上へ大の字になって寝転んだ。
 畳の適度な硬さは疲れの滲む背中には具合が良かった。全く体を動かさない事が実に心地良く、俺はすっかり脱力し切ってボーっと天井を見つめていた。体を動かさず視線を一点に落ち着けていると、自然と頭が冴え思考が潤滑に駆け巡る。だが元々考える事が苦手な俺にとってそれは、取り留めない事を次々と思い浮かべるだけでお世辞にも思考とは言い難いものだ。そればかりか、未だ気持ちの整理も不十分なため頭の中を引っ掻き回すような事が遠慮無しに浮かんで来る。体はこれ以上無いほど脱力しているにも関わらず、まるで休んでいる実感が無い。苛立ちながら何度か寝返りを打ち、やがて一つの考えがまとまる。俺は軽薄なりに打たれ弱いから、あまり考え込まない方が良いのかもしれない、と。
 小説の続きを読む気にはなれず、気分転換に携帯を手に取る。考えてみれば今日は一度も発信していなかった。せっかくだからこの有り得ない状況を面白おかしくメールしてみよう、自虐ネタとして笑ってくれるかもしれない。そんな事を思いながらアドレス帳を開き友人達の名前を選んでいく。しかし、行頭の挨拶を打ち込んだ所で思い直しメールを破棄する。これから先、ここに登録されている友人達とは実際に会える機会はほとんど無くなる。こんな事でいちいち細かく連絡を取っても、向こうにしてみれば顔も見れない相手に気を使うのが億劫になるはず。だから俺自身が昔の仲間とは連絡を取らない事に慣れなければ。俺は目に付かぬよう携帯を部屋の隅に放り捨てた。
 気分転換のつもりが、かえって憂鬱になってしまった。再び天井を見つめる作業を始める。依然、思い浮かぶのはどうしても頭や胸に突き刺さるような事ばかりで、やはり気持ちは沈むか苛立つかのどちらかだ。
 何故、ただ寝転がってじっとしているだけなのに、こんなにも面白くもないのか。しばらく思い悩んだ後、ふと自分がまだ昼食を取っていない事に気づいた。
 そうだ、腹が減っているからだ。腹が減っているから思考がネガティブになるのだ。
 空腹が満たされれば少しは気持ちも落ち着くはず。何か食べるものは無かったかと一度片付けたバッグを出して漁るが、出てくるのはガムぐらいなもので腹の足しになるような物は無い。この空腹をどうするか。しばし考えた後、ここへ来る途中コンビニがあった事を思い出す。ここからでは歩くと少し距離はあるが、ほぼ一本道で来たのだから一人でも迷う事はないだろう。それに日が落ちるまではまだ時間はあり、それまでこううだうだしていても間が持たない。
 早速俺は財布を確認し、携帯は少し考えてそのままに、部屋を出る。
「あっ、裕樹様?」
 部屋を出てすぐの廊下で、見覚えのある顔と鉢合わせた。
 歳の割りには小柄で色黒の肌が特徴的な子。鹿谷浩介だ。
 浩介は沢山の衣類の入った籠を抱えていた。洗濯物の回収か何かの仕事をしているのだろう。しかし抱えている量が尋常ではなく、明らかに浩介の体格には多過ぎる。それを浩介は手馴れた仕草で脇へ置き、他の使用人達と同様に膝を付いて一礼する。いつもそうしているかのような、流れるように自然な仕草だ。
 自分より一回り以上年上の人間でもそうだが、年下の子供に恐縮されるのもあまり居心地の良いものではない。俺は半笑いになって浩介に顔を上げさせた。
「お出かけでしょうか?」
「ああ、ちょっとコンビニ。小腹空いちゃってさ。玄関ってこっちでいいんだっけ?」
「御食事でしたら、わざわざお出かけにならなくとも。御言いつけして戴ければすぐに御用意いたしますよ」
「そんな大層な事じゃないって。パンとコーヒーぐらいで十分なんだ。あと暇潰しに雑誌あたり」
「でしたら、自分がひとっ走りして買ってきます」
「でも仕事中でしょ? いいよいいよ、そんな大事な事じゃないし」
 子供に使い走りをさせる趣味は無い。こんな事でも深刻になって生真面目なものだ、と俺は笑いながらその場を後にしようとする。しかし、
「ですが……裕樹様の御手を煩わせたと知れたら、そよ様にお咎めを受けてしまいます」
 浩介がうつむき加減にそう呟く。踵を返しかけた足を止め、改めて浩介の方へ向き直る。浩介の表情が祖母に怒鳴りつけられた時の成美の表情と重なり、息が支えた。
「そ、そうなんだ……。分かった、じゃあ何か軽い食べ物を頂戴。余り物なんかでいいからさ」
「分かりました、すぐに御用意いたします。少々お待ち下さい」
 浩介は深々と一礼し、籠を持って駆け下りていった。
 祖母に咎められる。
 改めて言葉にして聞かされると、少し俺はショックだった。祖母がまるで悪者のように見えてくる言葉だからだ。けれど、現に浩介のような生意気盛りの子供ですら祖母に対して恐縮している。使用人達の態度もそうだが、祖母の影響力は目の届かぬ所ですら人を押さえつけられるほど強いのだ。
 俺は責任という概念すらない、日々楽しければそれで良いといった、浮ついた生活ばかりを送ってきた。だから、誰かの意向に従うとか恐縮し自分の意見は控えるとか、我慢する事とは全く縁遠かった。だから尚更緒方家の、老若男女が等しく従う構図が奇異に見えてならない。
 ふと俺は、一つの事を思い浮かべた。
 こんな責任感の欠片も無い人間でも緒方の血筋ならば、使用人達は従わなければならないのだろうか? ならば、それは非常に不幸な事だ。
 少しは自分自身でも成長をしなければいけない。けれど、どんな成長をし、どう接するべきなのか、それが具体的には見えてこない。適切な距離はどこなのか。少なくとも、俺と祖母では大分違うと思う。