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「裕樹様、御食事をお持ちしました」
 十分ほど経って浩介が部屋へやって来る。先程の洗濯籠を担いでいた時と同様に、自分よりも大きな漆塗りの御膳を抱えている。前や足下がちゃんと見えているのかとの不安を余所に、浩介は慣れた仕草で俺の前に御膳を置く。この歳で仕事慣れしているなと俺は感心する。
 部屋に入ってすぐ漂って来た鰹出汁の香り、その予想通り御膳に並んでいたのは蕎麦のどんぶりだった。丁寧に漆塗りの箸と瀬戸物の箸置き、箸休めの漬物は色取り取りに四色も添えられている。
「どうもどうも。お、美味そうだな」
 一応の礼儀として、御膳に向かって手を合わせ一礼。そして箸を取り、まずはカブの浅漬けからつまんで口の中に塩気を馴染ませる。
 どんぶりを手に取り、汁を一口。蕎麦は刻み葱が軽くまぶされただけのシンプルなものだったが、口を付けた直後にはこれまで体験した事もない良い香りが鼻を抜け、戦慄が走った。蕎麦は藪、見た目も駅の立ち食いで見かけるものとさほど違いは無さそうだったが、歯ごたえといい蕎麦の香りといい、今まで自分が食べていたものは何だったのかとすら問いたくなるほど衝撃的な旨さだった。何故、こんな工夫も無さそうな蕎麦がこれほど旨いのか。俺はいちいち味はどうだとか考えるのが面倒になり、とにかく夢中になって蕎麦をすすり一気に平らげた。
「あー、うまかった。ごちそうさん」
「お口に合いましたでしょうか?」
「合うも何も、こんな美味い蕎麦食べたのは初めてだよ。これ、浩介君が作ったの?」
「いいえ、緒方家には専属の板前が数名おりますから」
「なるほど。やっぱプロの味なんだねえ」
 専門家が作ると、こんなシンプルな料理でも驚くほど旨くなるらしい。適度に腹は膨れたが、まだ口の中に残る味が名残惜しくてもう一杯食べてみたいと思った。さすがに二杯はがっつき過ぎだろうと口にはしなかったが、もう明日にでも食べたくなるような蕎麦だ。
 俺が食べ終えた御膳の上を浩介がまとめ始める。食べた物は下げる、と母親にはいつも口うるさく言われていた事を思い出すが、ここでそれは使用人が咎め立てを受ける理由になってしまう。自分の都合で用意させ片付けまでさせる事には罪悪感があったが、仕方がないのだと割り切って手は留め置く。
「あ、あの、裕樹様」
 御膳を持って行くのかと思ったその時、ふと浩介が俺の方へ恐縮しながら向き直った。
「ん、何?」
「その、差し支えなければ教えて頂きたいのですが」
「そんな緊張しなくていいって。俺、上下関係に細かく無いから」
「その、それではお言葉に甘えさせて戴きまして……」
 急に何だろうか?
 浩介の妙に畏まった仕草に俺は首を傾げる。そして、
「裕樹様の暮らしていた都会って、やっぱり車があちこちで走ってるんですか?」
 出てきた浩介の質問に、俺は首を傾げたまましばし硬直した。言葉そのものは非常に明確だけれど、その意図が俄かに理解する事が出来なかったのだ。
 いきなり何を訊ねるかと思っていたら。
 何かの謎かけか、はたまた習慣の違いという奴なのか。とりあえず俺は浩介の質問に付き合う事にする。
「そうだけど」
「本日は新幹線でいらっしゃったそうで」
「途中までね。後はバスと船を乗り継いで」
「飛行機もあるんですよね?」
「近所に? 空港は割と離れてるよ。国内線なら一回乗ったなあ」
「電車が地面の下を走るのも?」
「地下鉄? ああ、あるある。歩いて十分ちょいくらいかなあ」
「やっぱり上を歩くと揺れるんですか?」
「まさか、揺れない揺れない」
 浩介の質問は、日常的に見られる機関や施設についてのものばかりだった。俺にとってどれも当たり前に存在する物ばかりで、特別それらがあることを意識した事はない。そんなありふれた物について浩介は、非常に熱心になって次から次へと矢継早に訊ねて来る。子供の頃、江戸時代の武士が現代へタイムスリップして来て騒動を起こす漫画を読んだ事があるが、浩介がそれに似ていると思い、うっかり吹き出しそうになる。
「あー浩介君? 君、いつの時代の人だい?」
「えっ? あ、その……すみませんでした。つい」
「なんでそんなものが気になるの?」
「自分、そういうのってまだ実際に見たことが無くて……」
 浩介が熱心に訊くのは都会というものに漠然と憧れているからのようだ。自分は都会で生まれ育っただけに、浩介の憧れの基準は今一つ理解に苦しかった。しかし、車もほとんど走っていないような土地に生まれ住む者にしてみれば、まるで近未来の世界に見えてくるのかもしれない。SF映画に出てくるような街が実際にあるとしたら、確かに俺も浩介のように熱く訊いたかもしれない。
「修学旅行なんかでその内に行けるって。でも、意外と大した事無いぜ? 三日もすれば帰りたくなるさ」
「そんなものでしょうか」
「そんなもんだって。がっかりするぞう、期待し過ぎると。そういえば、今日は学校は?」
「え? 今日は日曜日ですから休みですよ」
「うっそ、マジで?」
 俺は驚き、慌てて放り投げていた携帯を拾って日付と曜日を確認する。確かに画面には日曜日を示す赤字で日付が表示されていた。
 何日も塞ぎ込んでいたせいで、曜日の感覚が狂っているらしい。その事に人から指摘されるまで気づけない自分もどうかしているが。まず、生活のリズムから建て直さなくてはいけない。そう俺は、久しぶりに建設的な事を思った。