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 夕刻までだらだらと寝転がりながら小説を読みつつ過ごす。昼間歩き詰めたせいか途中読みながら何度か眠ってしまったが、何とか一冊は読み終えた。ほとんどストーリーは追えていなかったが、来る時に読んだ最初の部分とラストは覚えているので、抜けた間は想像力で補完する事が出来た。読書として意味を成してはいないけれど、多分改めて読み返す事も無いだろう。何となく買った小説は結局そうなってしまうのだ。
 お呼びが掛かったのは、二冊目に手を付けようか付けまいか正に悩んでいたその時だった。まだ顔を覚えていない使用人の一人が夕食の呼び立てにやって来たのだ。
 通されたのはまるで宴会場のような大広間だった。そこに一人座るのは祖母。真向かいには錦糸を多量にあしらった、やたら豪華な座布団が敷かれている。仏具じゃないんだから、と俺は苦笑いを浮かべた。
「おお、裕樹。早くそこ座らしゃ」
 祖母はにっこり笑いながらそこへ座るよう急き立ててくる。俺は気持ち急いで腰を下ろし、足は正座せずに崩した。
「じゃ、御飯持って来ざい」
 そう祖母に言いつけられ、廊下の使用人は一つ返事をしそそくさと奥へと向かう。程なく、数名の使用人達が御膳を運んで来て俺と祖母の前にそれぞれ並べた。一人の前に御膳が三つ、真ん中がメインディッシュという奴で両脇は副菜といった所だろうか。
 御膳からはみ出すほどの大きな海老の刺身に、様々な魚の刺身の盛り合わせ、季節物らしい野菜や野草の天麩羅に、海草を組み合わせた和え物やお吸い物と、とにかく盛り沢山としか言いようのない品々だ。まだ普段夕食を取る時間より早いのだが、自分にとっては御馳走であるものばかりが並んでいる壮観な様を見ている内に腹が空いてきた。
 御膳が並べ終え、最後にお櫃を運んできた使用人が給仕となり、まずは祖母へ御飯を持った茶碗を出した。祖母は食が細いらしく、茶碗にはほとんど御飯が無い。
「裕樹はたんと食うべどな?」
「はい、大盛りでお願いします」
 その注文通り、自分の分は茶碗よりも多く盛られて差し出された。だが、これでも多分足りないだろうと俺の腹の虫は呟いた。初めて見る御馳走の山に食い意地を張っているからだろう。
 最初に手を合わせ、いつもの挨拶。そして早速、一番気になって仕方なかった大海老から箸を伸ばした。
 昼間の蕎麦もそうだが、この家の食事は何を食べても美味いとしか言いようがなかった。御飯一つ取っても何か普通とは違う旨さがあり、これだけでも十分食べられそうなほどである。浩介から聞いた通り、どれも腕の良い料理人が作っているから当然なのだろう。こんなに美味い物を食べてしまったら、もう二度と他の料理は食べられないかもしれない。そんな贅沢な悲鳴さえ漏らしてしまいそうだった。
「裕樹、ちゃんと食っとるが?」
「うん、食べてるよ祖母ちゃん」
「そうが。御飯、足りなぎゃ御盛り変えしてな。沢山あがらしゃ」
 祖母に言われるまでもなく、俺は遠慮無しに食べまくった。随分意地汚い姿だと自覚はしていた。しかし、なかなか満たされない空腹感に突き動かされている事もあって、自分でもどうにも止める事は出来なかった。
 やがて三杯目が残り僅かとなり、御膳の料理もあらかた食べ尽くし、ようやく空腹も満たされて箸の進みが落ち着いた。祖母は既に食事を終えたのかのんびりとお茶をすすっている。料理は手が付いていないのではと思うほど減っていなかった。ほとんど食べていない様子だ。
 茶碗を綺麗に空け、お吸い物をゆっくり飲み干す。気が付けばすぐには立ち上がれないほど満腹になっていた。腹ごなしに俺もお茶を貰い、ゆっくりとすする。
「なあ、裕樹。お前さんはこの島はどうだ? ちゃんとやって行げるか?」
「まだ来たばっかりだよ。でも楽しそうだと思ってるから大丈夫さ」
 きっと祖母は俺の生活環境の変化を心配しているのだろう。正直なところ、俺自身も不安感は無視出来ないほどある。しかし、そんな細かい事を祖母には言わない方が良いと思った。せっかく俺を引き取ってくれたのだから、我が儘を並べるべきではないと思うからだ。
 祖母はそうかと小さく答え、お茶をゆっくり飲み干す。そしておもむろにそれを切り出した。
「裕樹、実はな、祖母ちゃんはもう長ぐ生ぎられないんだ」
「へっ?」
「ただ歳取っとるだげじゃなしに、心臓やら血の道やら悪ぐなってしまったのよう。だがらな、申し訳ないけんとも裕樹とはあまり長ぐ暮らせないのしゃ」
 突然の告白にどう答えれば良いか分からず慌てている俺を他所に、祖母は湯飲みに新しくお茶を注いで貰う。そこで初めて気がついたのだが、祖母が飲んでいるのはお茶ではなく白湯だった。何故、お茶を飲まないのだろうか? そう疑問に思っていると、祖母の傍らに置かれている白い小さな紙袋が俺の目に留まった。あれは確か一昨年だっただろうか、流行の感冒で病院にかかり薬を貰ったのだが、その時の袋と良く似ている。
 単に年を取っているから先に死ぬとかそういった一般論ではなく、かなり現実的な話らしい。
 急に俺は息の詰まるような苦しさを覚え、思わず御膳の下で自分の足を強く握り締めた。せっかく現れた最後の肉親だと言うのに、実はあまり長く生きられないなんて。出来れば考えたくは無いし逃避に移りたいとすら思った。けれど、まだ完全には両親の事も吹っ切れていないせいで感覚が麻痺しているのだろう、すぐには思い詰める事もなく、ただ諦めに似た心情で息の詰まりを取り除きゆっくり手を離した。
「本当にごめんな、裕樹。たまげだか? でもな、大事な話だからな、早ぐ言っておきたかったのさ」
「あ、ああ、うん。大丈夫だよ、うん」
「そうかあ。んでな、祖母ちゃんはな死ぬ前に裕樹さ後を任せたいのしゃ」
「後?」
「裕樹がちゃんと緒方の家さ戻って、継いで貰いたいのしゃ」
 緒方に戻り継いで貰うという事は。俺は一寸息を止めその示す意味を考えた。答えはさほど難しくは無かった。だが、その言葉の持つ意味は大きい。俺は恐る恐る祖母へ訊ねた。
「つまり、俺に緒方家の当主になれって事?」
「んだ。白壁島を仕切るのは、代々緒方家の人間だ。だけんとも、今となっちゃ祖母ちゃんとお前さんと二人だけになってしまって、祖母ちゃんはあど何時死んでもおがしくない。だがら後を継げるのは裕樹しがおらんのっさ」
「なるほど……」
 自分は緒方家の最後の血筋になるという訳か。
 実際は分家だとか他に血を引く人間がいてもおかしくはないとは思う。だが白壁島に居ないという事は、祖母にとって当てにはならないのだろう。それに、祖母にしてみれば自分の孫に継がせる方がよほど納得がいくのかもしれない。
 祖母は自分以外に頼れる人間がいない。そうと分かっていても俺は、安易に返事をするべきではない、という思いが先行した。こんな大豪邸を構えるほどの名士の家を最近までふらふら遊び歩いていただけの人間が継ぐなど、到底正気の沙汰ではない。明らかに祖母は、年と病気、その上俺の母親の急死の事で気弱になっている。普通に考えたら断るのが正しい選択だと思う。だがここで俺が断ったら、祖母は一体どんな顔をするのだろうか。それを考えるのはあまりに苦痛だった。
「分かったよ、祖母ちゃん。何とか頑張ってみるよ」
「そうがあ。ありがとうなあ。祖母ちゃんどこ、喜ばしてくれてなあ」
 自信も無いのに言ってはいけない。最後までその思いから離れられず答えた俺に、何も知らぬ祖母は満面の笑みを浮かべて見せた。
 いよいよ後には退けなくなった。そう俺は背筋を震わせた。祖母が喜んでくれるのなら、それは俺にとっても嬉しい事だ。しかし、俺が期待通りでなければ、祖母の表情は容易く曇ってしまう。そして祖母にはあまり時間が無いかもしれない。俺は悠長にやっていられないのだ。
「でも俺、どうしたらいいんだろ? 勉強はそんな出来る方でもないからさ、これからは頑張るけど」
「それもそうだけんともな。それよりもまずな、裕樹がしなぐでいけない事があるのしゃ」
「しなくてはいけない事?」
「んだ。緒方家に代々伝わる、大切な事だ」