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 夕食後、俺は祖母と再び祖母の部屋へと向かった。
 部屋へ入ると祖母は真っ先に部屋の隅へ行ってそこに屈み込んだ。何が始まるのかとそれを見ていると、祖母の屈み込んだそこには小さな木製の引き戸があった。縁取りや彩色も無く、辛うじて手をかける窪みが僅かにある程度で、初めから戸が目立たないようにするため意図的にこういった作りにしているように見受けられる。まるで忍者屋敷の隠し扉のようだと俺は思った。
 その戸を開け中から現れたのは、一転して重厚な鉄の引き出し。祖母は懐から何本かぶら下がった鍵束を取り出すと、その内の一本を取っ手のすぐ下にある鍵穴へ差し込み捻る。見た目の重さとは裏腹に祖母はあっさり引き出しを開けると、中から何やら小さなものを大事そうに取り出した。一体何が出てきたのか、そう思っている内に祖母はそれを座って待つ俺の元へ持って来る。
 祖母が目の前に置いたのは、小さな立方体の木箱だった。祖母に促され、その箱をそっと手に取ってみる。
 箱は手のひらの上に乗せてもまだ余るほどの小ささで、携帯よりもやや軽い。サイズによらず非常に細やかな模様が彫り込まれているが、これ自体が作られてから相当な年月が経過しているらしく、角もすっかり取れ所々に擦れ傷が付いており、磨いても落ちそうに無い濃い汚れもかなり目立つ。しかし見た目の古さとは裏腹に、摘んだ指先からはまるで鉄のように非常に硬い感触が伝わってきた。どんな種類の木を使っているのかは分からないが、相当頑丈な作りをしているようだ。
「祖母ちゃん、これ何?」
「これは蓬莱様と言ってな、緒方の家の神様しゃあ」
 緒方家は白壁島の守り神、現人神の家系だったはず。その緒方家の神という事は、神の神、という所だろうか。
 経緯はともかく、神の神とはいかなるものかと手に乗せたまま改めてそれを眺める。けれど彫り物が精巧な事を除き、どうしてもそれは古びた木箱以外の何物にも見えなかった。強いて挙げれば、伝統的な工芸品といったところだろうか。
 確かに珍しい事は珍しいかもしれないが、神様と言う割に随分と小さななりをしている。とても俺には有り難むほど貴重な物には思えなかった。
「あ、ここって蓋になってるのかな?」
 そんな軽んじがあったからだろう、俺は本当に何の気も無しに、たまたま目に止まった僅かな木と木のズレに爪を引っ掛けてみた。
 すると、
「裕樹、いがん!」
 突然怒鳴った祖母に、俺はその手を払われた。
 驚き硬直する俺。脳裏に、今日ここで成美へ向けたあの厳しい表情が思い浮かぶ。
 今のは流石にまずかったのか?
 恐る恐る祖母の顔を見る。だが祖母の表情は、幾分眉を吊り上げ厳しさを滲ませているものの、成美の時に見せた凄味のある厳しさではなかった。
「ごめんな。蓬莱様は神様だから、みだりに開げるもんでねえのしゃ」
「そ、そうなんだ。ごめん……」
 お守り袋を開けると神様が逃げてしまって御利益が失われる、なんて話をたまに耳にする事がある。きっとこの箱はお守り袋よりもずっと神格が高いもので、蓋を開け中の神様を逃がすなどとんでもない事なのだろう。それこそ、国宝の観音像の指を折ってしまうような取り返しのつかない程に。神様や御利益というものを実しやかに信じている訳ではないが、俺はいちいち存在の証明云々を問うほど野暮でも非常でもない。祖母がそうと信じていれば俺も信じる。そういうものだ。
 とりあえず余計な事はしないようにと、俺は手に乗せた蓬莱様をそっと畳の上へ戻した。すると祖母は作業机の引き出しから小さな巾着袋を取り出すと、蓬莱様をその中へ恭しく仕舞い込み口を硬く結んだ。蓬莱様を納めた、赤いシルクの巾着袋。祖母はそれを俺の手にそっと持たせる。
「いいが、裕樹。これがらお前さんは蓬莱様を肌身離さず持たねばなんね。勿論、蓋も開けるなんざ持っての外だ」
「肌身離さずって、寝る時や御飯の時も?」
「んだ。学校さ行く時も風呂入ってても便所に行く時も、何があっても片時たりともだ。蓬莱様を自分の体の一部にすんだ」
「分かったけど、こんな貴重そうなものを俺がずっと持ってていいの?」
「いんや、大体半年だなや。その間にお前さんが当主に相応しいかどうか、蓬莱様が決めでくれるのっさ」
 蓬莱様が決める?
 思わず手の中の蓬莱様へ視線を落とす。蓬莱様と呼ばれる小さな古い木箱。これが当主の何を決めるのか、しばし俺は考える。その仕草が祖母には蓬莱様へ対する疑問に見えたのだろう、俄かに信じ難い俺を諭すかのように微笑みかけた。
「何も難しい事でね。裕樹がちゃんど正しく生ぎでいれば、それで良がんす」
「蓬莱様に人間性を試される、って事?」
「蓬莱様はいつでも裕樹の事を見でるけんとも、裕樹はしゃんとしでれば何もおっかなくねさ。だがらちゃんと蓬莱様を離さず持ってらい」
 どうやら緒方家の当主というものは、代々伝わるこの蓬莱様という神様に認められた人間でなければなれない仕来たりらしい。
 当主は単なる世襲制と思っていたが、こんな田舎ではまだこういう古い風習も残っている事はあるのだろう。どうせやらなければいけないのは、この巾着に入った箱を常に身に着けるだけ。祖母を満足させるのに大した負担ではない。
「でもさ、どうなったら認められた事になるの? 時期が来れば蓬莱様が現れるとか?」
「吉兆だで」
「吉兆?」
「お前さんが蓬莱様に認められれば、必ず何が吉兆がある。だがらな、裕樹。しゃんとしてで蓬莱様に認められでけらい。そうんでねば祖母ちゃん、死んでも死にぎれね」