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 吉兆か。
 夕食後、自室に戻った俺は祖母から渡された蓬莱様を寝転がりながら眺めていた。
 この白壁島の実質的な支配者に当たる緒方家の当主、それを継ぐためには伝統的な試験がある。しかしその決定基準があまりに漠然としていて、俺は少し戸惑っていた。
 具体的に何か学術や特殊な技術を習得するとか、それならまだ理解出来る。しかし、吉兆とは一体どういう意味なのだろうか?
 辞書で意味を調べようかと思い立ち、しかしそれは別に送った荷物の中であることを思い出す。何か記憶の片隅にでもないか探ってみるが、唯一引っ掛かったのは子供の頃に読んだ昔話だけだった。結局の所、俺の知っている範囲などはその程度のものだが、多分綿密に調べたとしても目新しい発見は出来ないだろう。
 緒方家は、当主という重要なポジションをそんな曖昧な事で代々決定してきたのだろうか?
 寝転んだまま、その疑問を目の前の蓬莱様へと投げかけてみる。もしも中に本当に神様が居るのであれば、きっと自分を不信心者と怒り天罰を下すだろう。そんな幼稚な想像を巡らせ、何気なく指で突付く。巾着袋越しに蓬莱様の木の感覚が指先へ伝わってくる。本当に何の変哲も無い、強いて言えば恐らく歴史的な価値がいずれ認められるかもしれない、そんな古ぼけた木箱だ。
 蓬莱様と名づけられたこの木箱に、人をどうこうするほどの力がある筈も無い。当然だが神様など存在する訳も無く、吉兆にいたっては後付でどうとでも解釈できるようなものだ。おそらく祖母は、本心では無条件に俺を当主にさせるつもりなのだろう。試験とは言っても、他に後継者のあてがあるはずも無い。吉兆が合格の条件というのは形式的な方便だ。つまり半年もすれば自動的に俺は緒方家の当主になる。半年という微妙な期間も準備のために必要な時間だろう。極端に言えば、この試験が始まった時点で俺が後継者になるのは決まったようなものなのだ。
 そうなると、蓬莱様などいちいち律儀に持っていても仕方ないのでは?
 そんな考えが頭を過ぎるものの、俺はすぐに振り払った。病気で余命幾許も無いような祖母に、肌身離さず持っているようにと頼まれたのだ。それを無意味だからと蔑ろには出来ない。それよりも、自分が当主として身に付けるべき事を真剣に考えるべきだ。実質確定的となった以上、これまでのような爛れた生活を続ける事は許されない。祖母の代わりが出来るよう、白壁島の事や仕事の事などを習得しなければならないのだ。具体的に何をどうすればいいとかは想像も付かないが、とにかく学校の勉強だけではとても足りないだろう。そもそも学校の勉強すら足りていない自分には非常にハードルが高い。
 どういった勉強をすれば良いか、明日にでも祖母に相談してみよう。行動は早い方がいい。
 まず自分に必要なのは勉強。そう結論付けた俺は、早速普段では有り得ない勉強する意欲を湧かせ勢い良く立ち上がった。何か勉強するものは無いかとバッグの中身を思い返してみたが、教科書類は使うかどうかも分からないので別に送った荷物の中である。当然だが参考書の類など生まれてから一度も買った事が無い。そうなると身に付きそうなものは、読みかけの小説ぐらいだろうか。
 活字に触れるだけでも頭は良くなる。そう萎えかけた意欲を取り戻し、テーブルの上に置いていた小説を取る。
「……やっぱお茶か何か欲しいよな」
 ページをめくり掛け、そう思い留まった俺は小説を置く。
 そこでふと俺は考え込んだ。普段なら台所にでも行って冷蔵庫を開ければ済む話だが、緒方家ではそうもいかない。昼間の食事のように、必ず使用人を使わなければならないのだ。使用人は主人の手を煩わせてはいけないと当たり前に考えていて、それが出来なければ咎めを受けてしまう。しかし自分自身、いちいちその程度の事を人にやらせるのは申し訳ないと思う気持ちがある。使用人が何でもやってくれるのは便利だと思うが、些細な事であれば自分でやりたい。そうでなければ、かえって息苦しくて不自由だ。
 お茶の一つでまた大騒ぎになっても面倒だ。今日は諦めておく事にしよう。
 何もかもが仰々しい。そう溜息をつきつつ、再度小説を開いた。まだ夕食がこなれてはおらず少しばかり喉の渇きも気になったが、さほど苦労も無く意識は文章へと移った。部屋にはテレビや雑誌も無く、非常に娯楽に乏しい環境だ。しかし、未だ居候のような身分でそれを要求するのも気が引ける。それに当主となるため生活を改めようとも考えているのだから、いっそこの際娯楽は小説ぐらいにしておいた方が良いのかもしれない。ただ、そのためには本屋へわざわざ買いに行くという、これまでであれば別段意識する事も無かった面倒事が発生するのだけれど。
「裕樹様」
 小説を開いて程無く、部屋の外から呼ぶ声とノックの音が聞こえて来る。
「んー、開いてるよ」
 起き上がって小説を閉じながら答える。声の主は一言断りを入れて静かに戸を開けた。現れたのは成美だった。祖母の前と同様の、視線を合わせない伏目がちな重苦しい態度をしている。
「あ、成美ちゃん。どうしたの?」
「御入浴の準備が整いましたので、お知らせに伺いました」
「風呂ね。そういやタオルとか持って来て無かったなあ」
「いえ、全て準備してございますので、そのままいらっしゃって結構です」
「ふむ、至れり尽くせりだ。じゃあひとっ風呂浴びて、それから続きにしようかな」
 今日は移動だけでなく普段よりも長く歩き詰めたから、風呂でゆっくり温まり疲れを取っておいた方が良いだろう。
 早速俺は言われた通りの手ぶらで部屋を後にし、成美の案内で風呂場へと向かう事にする。着替え類は持たなかったが、出掛けにはきちんと蓬莱様は確認する。風呂の時も手放してはならないという祖母の言いつけを早速破る訳にはいかないからだ。
「そういや成美ちゃん、明日って普通に学校?」
「はい。朝の仕事が終われば登校いたします」
「学校って島の中にある?」
「ええ。町の中心から少し離れた所に建っております」
 コンビニもあるのだから、校舎も島内に建てられて当然だろう。学校は本土にしかないから毎日あのフェリーで行き来しなければならない、といった状況にはならずに済む。そう俺は安堵する。
「祖母ちゃんに訊かなかったなあ、俺の転校のこと。明日いきなり行って授業は無理だよね」
「受け入れ準備もあるでしょうから、おそらくは。ですが、見学という形でしたら問題無いと思います」
「なら、明日は一つ案内頼もうかな」
「承知しました」
 転校は初めての経験だが、クラスの顔ぶれががらりと変わる事など、学校を上がる時に経験している。大体はどこ出身だのどこで遊んでいるだの、そんなありきたりな質問を交わして仲良くなるものだ。クラス替えも転校もさほど変わりはないだろう。見学という形にはなるが少しぐらい話だって出来るはず。これまでの友人とは連絡は取らない事に決めただけに、新しい友人への期待感は高まってくる。
「ところで成美ちゃん。やっぱその堅苦しい喋り、やめない? 二人の時は普段通りで良いって言ったじゃん」
「申し訳ありません。ですが、ここは廊下ですし人の目も耳もありますから……」
「なかなか思うようにはならないって事だね」
 新しい友人に一つ懸念があるとすれば、今の成美のように仰々しい会話しか出来なくなるのではないかという事だ。使用人ではないからと気軽に話してくれるだろうとは勝手に期待しているが、万が一にという事もある。いちいち仰ぎ見るような口調で接されても息が詰まるだけだ。そういう理解のある者が居てくれれば良い。まずはそれを祈るだけだ。
「人目が無くてお互い気兼ねしなくて済む場所なら、か。ねえ成美ちゃん、一緒に風呂入りながら話そうか?」
 そう冗談めいた口調で成美に問いかける。
「……ッ!」
 成美は一度肩を震わせ、こちらを振り向く。おそらく驚きや照れが入り混じっているのだろう、顔を真っ赤にしながら唇を震わせじっとこちらを睨みつける。どう? と再度訊ねるように首を傾げて見せると、成美はキッと前へ向き直り以降振り向いてくれなくなった。
 そういえば前にもこんな風にからかったことがあったような気がする。俺は成美のやたら力の篭った肩を見ながら含み笑った。