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 おおよその予想はついていたが、風呂場は温泉旅館にあるような大浴場という表現がぴったりのだだっ広いものだった。
 最初に体を軽く流し浴槽へと浸かる。思わず泳ぎたくなるような広い浴槽を独占するのは、実に開放的で気分が良かった。鼻歌の一つも漏らし、心地良い温度に浸り続けていた。料理も旨く、広い風呂にも入り、後はゆっくりと寝るだけ。実に贅沢な環境だと満悦だったが、ふと出来るだけ考えないようにしていた両親の事を思い出してしまった。家族と来ていればもっと楽しかったのかもしれない。そんな今となってはどうしようもない事を考え、不覚にも涙が込み上げてくる。あれだけ無気力な期間を過ごしたのだから、いい加減立ち直らなければ。今は祖母のためになることに力を尽くさなければならないというのに。
 考えてみれば、まだ両親の墓参りをしていない。四十九日とかいう法事もあるらしいが、全て放り出して来ている。来たばかりでまたすぐ本土へ戻るのは引け目があるから、無事当主となってから参る事にしよう。環境は変わったけど元気でやっている。そう報告するためだ。
 そう意気込み、勢い良く顔を洗い涙を落とす。そもそも、事あるごとにいじけるのは女々しくて良くない。それに、そんな姿を人に見られるなど恥さらしもいいところだ。
 そんな事を考え顔を更に擦っていると、
「裕樹様、よろしいでしょうか?」
 風呂場と脱衣所を仕切る磨りガラスの外から人の声がする。
「ん、浩介君?」
「はい。御背中を流しに参りました」
 恭しく戸を開け一礼し入ってくる浩介。飾り気の無いシャツに短パンといった、濡れても構わないような服装である。
 こちらが返事をしてすぐ入ってきたため、すっかり断るタイミングを逸してしまった。人に背中を洗わせる事など普段有り得ない状況だけに断りたかったが、入って来てしまったのを今更追い出す訳にもいかない。
「裕樹様、どうぞ」
 手馴れた仕種で準備を済ませ、浩介が洗い場のイスへ促してくる。自分だけ裸で居る居心地の悪さもあり気後れしたが、そんな事を気にしていると浩介に思われるのも避けたい。あくまで自然体を装いつつ、気持ち隠しながらイスへ移った。使用人相手に気を使うのは本末転倒ではないかと思ったが、それは恐らく自分がこういう事に慣れてないだけで、本来は気にも留めるべきではないのだろう。貴族のような振る舞いは、とても自分の神経では不可能だ。
「垢擦りと綿タオルとで、どちらにいたしましょうか?」
「垢擦りでいいよ。がしがし磨かないと洗った気しないから、思い切りやって頂戴。あ、前は自分でやるからね」
 浩介が用意したのは、ヘチマを乾燥させたスポンジ状の垢擦り。しかし見た目の脆さとは裏腹に肌触りは案外ハードで、若干の痛みすらも感じるほどだった。垢擦りタオルなら良く使っているけれど、それとはまた違った使い心地である。思ったほど悪くはない。
 それにしても、こうして浩介に背中を洗われるのは形容し難い妙な状況である。そう俺は唸った。人からは注意される方が多かったからか、傅かれる事にはどうしても違和感を覚えてならない。やはり次からは、背中を洗うのは断ることにしよう。そう思った。
「しかし、なんか恥ずかしいなこういうの」
「裕樹様はお一人で御入浴される方が好きなのですか?」
「まあね。ほら、風呂って普通一人で入るもんだから、何か色々と考え事出来ちゃうじゃん?」
「なるほど。今はどんな事を?」
「うーん、まあ色々かな」
「御両親の事とかですか?」
 思わぬ浩介の指摘に言葉が詰まる。おそらく背中からもそれが伝わったのだろう、浩介は俺の名を呼び問い掛ける。だが支えはすぐには取れず、俺は淀みなく答える事が出来なかった。その間を浩介はトラの尾を踏んだものと思ったのだろうか、しばし狼狽の声を漏らすと、やがて俺を沈黙させた自分の言葉に気づき、そっと深く息を飲んだ。戦慄している呼吸だ。そう俺は直感する。
「も、申し訳ありません。無礼な事を言ってしまって……」
「いや、別にいいよ。気にしない、気にしない」
 無理に明るく答える。ここで感情を乱すのは、如何にも自分が触られたくない所を触られ逆上していると、受け止められる事に抵抗があったからだ。両親の死を軽々しく口にされた事に気にしないなどと、自分でもわざとらしいとは思った。しかし、他に適切な対応が思い浮かばなかったのだ。普段からへらへらして生きていると平静さを装う時もへらへらしていないといけない、そんな自分の浅慮さを苦々しく思う。
「そうだ、両親って言えば。水野さんって人、知ってる?」
「はい、勿論。緒方家には欠かせない方です。自分には良く分からないですけど、とにかく難しい仕事を幾つもしているみたいです」
「あの人は凄いよね。事務手続きだとか家事だとか、何でも出来ちゃうから。俺、葬式とかそういうのの段取りは全部やって貰ったからなあ。本当に世話になっちゃった。今度水野さんに会ったらちゃんと御礼言わないと」
 両親の事故後、突然現れた才女の事を今更ながら思い浮かべる。死人同然に腑抜けていた自分は、ひとえには言い切れないほどの世話を彼女から受けた。恩人という言葉では片付けられない、とにかく幾ら感謝してもし足りない相手である。
 家財の始末の事もあって、今日は水野さんと一緒には来れなかった。きっと、あれだけ有能な人物ならば重要な仕事も多く回されているだろうから、さほど間も空けず帰って来るはず。その時には、今度はきちんとした態度でお礼をしなくてはいけない。水野さんがいなければ、俺は精神的にどうかしていて、まともに両親の葬式もあげられなかったのだから。
 思えば祖母にばかり感謝の念を向けていたが、自分は水野さんにも多大な世話になっている。それは決して蔑ろにしてはいけない。そう思った。
「水野さんって、やっぱ普段も忙しそう?」
「そよ様の側近でもありますから。重要なお仕事も任されているようですし、少なくとも暇ではないと思います」
「側近って言うと、社長秘書みたいなもん?」
「はい、そうなります」
 幾ら当主の権限が強いとは言っても、社長が一人で会社を回す訳ではないのと同じで、実際は部下を使って行うものだ。緒方家は特に白壁島全般の事に関わっているようだから、到底祖母一人で管理出来るはずがない。白壁島の秩序を保つため、祖母にも有能な部下が必要だろう。おそらく水野さんはその一人だ。あれほど万能を絵に描いたような人なら、さぞかし信頼も厚いだろう。
「考えてみたらさ、俺が当主になったら水野さんは俺の秘書になるって事?」
「秘書かどうかは分かりませんが、多分そういう事だと思います」
「なんか複雑な気分だよね、そういうのって」
「年下が年上に命令する事が、でしょうか?」
「んー、何て言うかさ。思春期的に? ほら、水野さんって結構美人でしょ? やっぱ大人の魅力って、それはそれであるじゃん」
「は? はあ」
 こちらの言わんとしている事が、浩介には正確に伝わっていないのだろう。返って来たのは要領を得ていないとばかりに気の抜けた返答だった。
 きっと、浩介にはまだ早いのかもしれない。そう俺は苦笑いする。