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 緒方家の屋敷を普段出入りするのは、来る時と同じく正門まで向かわなければいけないらしい。確かに裏口からも出られるが、そこは基本的には車用の出入口であって、普段は鍵がかけられて出入りは出来ないようになっているそうだ。
 玄関へ向かう途中に訊ねた使用人からそれを聞かされた。必要であればただちに鍵を開けると言われたが、流石にそれは大袈裟過ぎるので断った。それに、自分一人で裏口から出ても仕方が無い。
「ごめーん、成美ちゃん。待った?」
 玄関には既に成美の姿があった。いつものように軽い乗りで話し掛けるが、成美は厳かに黙したまま深々と一礼するだけだった。緒方家内で周囲の視線がある場所では使用人らしい態度を取らなければならないのは仕方ないとしても、この空気の温度さにはいかんともしがたいものがある。これではかえって恥ずかしい思いをするのはこっちだ。
 靴を履こうとすると、早速別の使用人が近づいてご丁寧に履かせてくれる。だが、その方がかえって時間がかかり面倒だ。こういうことはきちんと言った方が良いものかどうか、俺は判断に苦しむ。
「それでは参りましょう」
「うむ、参ろうぞい」
 笑わせるつもりで、わざとらしい変な口調で答えてみる。しかし、周囲の使用人は元より成美はくすりともしなかった。
 普段からこういうくだらない事は口にしているが、ここまで冷たい空気はそうそう味わえるものではない。負けじと笑うまで繰り返そうかと考えたが、あまりこんな事ばかりして周囲から本土の人間は馬鹿だと思われるのも癪だ。もう、こういう時はこういうものだと割り切った方が良さそうだ。
 昨日も通ったやけに長く広い庭を抜けて正門の外へ出る。今日は荷物を持っていない分、昨日よりも距離をさほど苦には感じなかった。まだ若干足の裏が痛むものの、少しくらい歩き回る分には大した問題にはならない。
「見上さん、まずはどちらに行きますか? 何か知っておきたい施設などがあれば」
「何はなくともまずは買い物をする所かな。日用品とかの。コンビニは昨日見たけど、それ以外にもCDや本や服やら。そういえば、成美ちゃんは普段どこで遊んでるの? 学校の帰りとかさ」
「私ですか? 私は使用人としての仕事がありますので、真っ直ぐ帰宅します」
「えー、それってつまんなくないの?」
「生まれた時からそうですから。それに仕事の方が大事ですし」
「あんなに沢山居るんだし、一人くらいサボってもばれないよ」
「そういう訳にはいきません。皆さんに迷惑がかかりますから」
「真面目だねえ。たまに息抜きしたってバチは当たらないのに」
「でも、蓬莱様が見ていますよ」
 そう言われ、俺はポケットの中の蓬莱様を確かめる。
 言われてみれば、確かに蓬莱様には特に自分は監視されていることになっている。なるほど、些細な悪さも出来ない。
「確かにそうだった。俺、今日から真面目にならないといけないんだった。祖母ちゃんに期待されてるからな、頑張って当主にならないと」
「私はきっと大丈夫だと思いますよ」
「何でまた?」
「見上さんは優しくて面倒見も良いですから。私が本土の学校へ居た時も、見上さんは周囲で凄く人気があったんですよ」
「ふうん。でも俺、元々モテ過ぎてたから良く分かんね」
 まずは買い物の範囲を把握するため、成美に商店街へ案内して貰う事になった。
 商店街の入口までは、屋敷を出てからおよそ二十分は歩いて到着した。昨日港から来た時は通らなかったが、入口には大きな真新しいゲートが立てられ、あちこちにセールやら販促やらのチラシがひしめいている。いかにも賑わっているような雰囲気の商店街だ。
「ここが商店街になります。基本的に普段の買い物はここで十分事足ります」
「結構店もひしめいてる感じだよね」
「そうですね。意外と専門店も多いですから、困る事は無いと思います」
 足を踏み入れる前から、通勤通学の時間帯もあってかなりの人通りが感じられた。通りには実に多くの人々が歩いている。俺が都会に居た時も、朝の通学時間帯はかなりの人が通りを歩いていたが、それに匹敵すると言っても良い程の数である。白壁島には未だ過疎地や田舎のようなイメージが強いだけに、この人の多さには余計にギャップを感じた。しかし、行き交う人々は様々だが、こちらに気づくと必ずと言って良いほど一定の距離を置いた。伏目がちに一礼し足早に立ち去ろうとする姿は、自分に対する畏敬か恐縮の念だと推測する。けれど、どこか関わらないようにしているかにも思えてならなかった。稀に、俺に向かって手を合わせる老人達の姿も見受けられたが、むしろこちらをきちんと認識してくれる彼らのような反応の方が気が楽だと思った。触らぬ神に祟りなしとばかりに距離を取る大多数、島の守り神として信じて疑わない少数、そして極僅かに訝しげな視線をこそこそと送る者達。まだ彼らにとって俺は本土から来た余所者なのか、それとも他に意図する事があるのか。真意は分からないが、少なくとも自分にとって心地良いものではないだろうと何となく思った。
「通勤時間帯だからこの人込みなんだろうけどさ、なんかスーツの人っていないような気がするね。みんなどこで働いてるの? サラリーマンとかじゃないの?」
「白壁島ですと、主な仕事場は島に幾つか点在している採石場と関連施設になりますね。最終的には出荷が中心の仕事ですから、対外的な職務の方でなければまずスーツを着る事はありませんよ。なんでも、白壁島はずっとそんな習慣だったそうです」
「いわゆるビジネスカジュアルって奴だね。ある意味進んでるのかな。そういや仕事場って言うと、ここからどれぐらいかかるモンなの?」
「大体バスで一時間もしないぐらいですよ。朝晩と緒方家が所有する送迎バスがあって、みんなそれを利用しています。ここの通りを歩いている人はほぼ全員バス乗り場へ向かっています。目的地によって乗り場も違いますから、相違点はそのぐらいですね」
「緒方家所有、か。相変わらずスケールがでかいな」
 一族で経営する大企業は日本にも存在するが、一族がある地域の生活基盤そのものを支配しているような例は他に聞いたことが無い。昔の豪農と同じ構図なのだろうと思う。ただ、現代生活には柔軟に対応しているから、その構図を崩さずにいられているのだろう。
「俺もその内、つるはし担いでガッチンガッチンやるようになるんだろうね」
「まさか。緒方家の方は、もっと上の管理の仕事ですよ。それに、今時はほとんど機械で仕事をしますから」
「想像力が貧困なもんでねえ。何せ生粋の都会っ子だから」