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 まだ正式な生徒という訳ではないため、俺達は来客用も兼ねた職員玄関から校舎に入った。教員はそんな事を咎めたりはしないだろうが、一応のマナーである。
 一階には職員室を初めとする、校長室や保健室といった普段は用が無ければ縁の無い部屋が並んでいた。前の学校と配置がほとんど一緒である。こういった間取りはどの学校でもあまり変わらないのだろう。
「そういえば、この学校って制服は無いんだ?」
「一応はあるんです。ただ、着用が強制されるのは式典の時だけなので、誰も着ないだけで」
「やっぱデザインが悪いから敬遠されるのかな?」
「確かに、着なくて良いのなら着たくはないですね」
 更に進んでいくと生徒達の出入りする正面玄関、そしてその先にはやけに騒がしい一画があった。何となく自分の好きな空気が漂っていると直感する。騒ぎたがりの虫が踵を浮つかせた。
「ねえ、あっちは何? 随分賑やかだけど」
「食堂です。生徒や先生はそこで食事を取るんですよ」
「言われてみれば香ばしい匂いが。メニューはどう? 味とか」
「あまり一概に言えた事ではありませんが、本土の学校に居た時よりはずっと良いと思います。メニューの数も倍以上ですし」
「ん、なんかうまそうだな。腹は空いてないけど、ちょっと寄ってみたいな。少しだけいいかな?」
「いえ、今はやめた方が良いですよ。ほとんどの生徒がいますから。きっと見上さんの噂話をしているでしょうし、そこへ本人が行くとなると……」
「なるほど。えらい事になる、か」
 騒がしいのは好きだが、騒ぎの元が自分になるのは好きではない。無責任だからこそ騒ぐのは面白いし楽しめるのだ。どの道、明日の昼食は学校で取るのだから、別段今にこだわる理由は無い。どうせ気になるのはメニューぐらいなものだ。
「それでは高等部の教室へ行きましょう。こちらの階段です」
「教室は騒ぎにならないかな?」
「騒ぎのほとんどは中等部の生徒ですから。それに、昼休みの教室はどこも閑散としていますよ」
 高等部の教室は四階にある。校舎で四階もあるのは比較的大規模な部類に入るだろう。前の学校でも校舎は三階建てだった。相当ふんだんに資金を投入したのだろう。緒方家の学校に対する熱の入れ具合が窺える。
 四階まで登り、廊下を右に曲がってすぐの部屋が高等部の教室だった。外から中を一見する分には、教室に人はまばらにしかいない。大体が食堂へ行っているか、午後の授業までどこかで遊んでいるのだろう。
「では、入りますよ」
 成美を先頭に教室へと入る。戸を開ける音に、一斉に視線がこちらを向いた。ざっと数えても十名にも満たない数、しかしその全てが異邦人を見るかのような視線である。俺を一瞬でもたじろがせるには充分だった。
「あの、皆さん。もう知っている人もいるかと思いますけど、この方は、明日からこの学校へ転校される方です。今日は簡単に顔合わせと学校の案内に来ました」
 成美の説明に、教室内が僅かにざわめく。だが、それ以上言葉を上げる者は無く、遠目からは眺め隣同士と話はするものの近づいて来る者はいなかった。
「やあ、どうもこんにちは。そんな訳でこれからよろしく」
 見えない壁に気付かない振りをし、普段を意識して軽い口調で第一声を放つ。だが、さほども場の空気は好転しない。
 この状況に俺は少しだけショックを受けた。やはり高学年ほど緒方家に対する認識が深く、初めの内は火傷をしないよう迂闊に近づく事は避けたいようだ。賢い判断だと思うが、緒方家の威光が少しばかり疎ましく思った。
「あ」
 ふと教室の窓辺で見覚えのある顔を見つける。先ほどバスプールの所で手を振ったあの彼女だ。
 彼女はこちらと視線が合うと、ようやく気付いたかとばかりに微笑し、遠慮がちな周囲を他所に極自然な足取りでこちらに歩み寄ってきた。
「ようこそ、白壁島へ」
 そう言って彼女はにこやかに右手を差し出してくる。彼女はバスプールの時と同様に、俺に対する気後れがまるで無かった。緒方家の事など意に介さないとばかりの自然体、本来なら当たり前のものと捉えるべきなのに俺は少しばかり感激してしまった。
「どうもどうも、初めまして」
 その手を反射的に取り握手。ついでに、これは何事も無いことだとわざとらしく周囲に見せ付ける。
「私は縁悠里よ。悠里って気軽に呼んで」
「俺は見上裕樹、まだ緒方っては呼ばないでね」
「見上様、としましょうか?」
「様は嫌だな。俺も気軽に呼んで欲しいから」
「じゃあ、裕樹君、ね」
 早速お互いの呼び名も決まり、にこやかに挨拶を交わす。
 心なしか周囲の空気も緊張が解けて来たように感じた。普通の会話ぐらいは出来る相手のようだ。その程度の認識はされたはずだ。
 単にここの人間は都会のように馴れ馴れしい挨拶はしないのだろう。だからいきなりふざけた出だしを切った自分に引いただけなのだ。ここで掴んだ流れを逃がさぬよう、今の状況を前向きに好意的に解釈する。
「あの、この人は高等部の部代表を務めている人です」
「部代表って?」
 そう成美に問い返すと、先に悠里が答える。
「一番の年長者として、後輩をまとめる役よ」
「まとめ役ってことは、委員長みたいなもんかな。あれ、もしかして三年生?」
「年上だと何か問題かしら?」
「いいえ、全然。むしろ大歓迎」
 そんな俺のいい加減な返答に、悠里はおかしそうに微笑んだ。
 委員長という肩書きの人間に好かれた事は無かったのでいささか不安はあったが、どうやら悠里とは気が合いそうに思う。彼女がまとめ役なのであれば、今後の学校生活への不安は全て杞憂になりそうだ。
「あの悠里さん、菊本さんはどちらに?」
「あいつ? ああ、食堂かどこかじゃないかしら。それに、私はあいつの面倒を見てる訳じゃないわよ、成美ちゃん」
 ふと成美が問いかけた事に対し、急に悠里の口調がぞんざいになった。それは成美に対してではなく、成美の言うその人物についての感情の表れのように聞こえる。してはならない質問をしてしまったのか、成美はうろたえたらしく口をつぐんだ。
「菊本って誰?」
「代表補佐です。一応挨拶をしておこうと思いまして」
「そ。成績はそれなりだけど、神経質で人望が無いのよ。だから補佐止まり。そうそう、裕樹君。菊本には気をつけておいてね」
「へ? 何をですか?」
「あんまり大声じゃ言えないけど、あいつってさ、転校生の事をあまり快く思ってないの。本土の出身者が嫌いみたいで」
 どうやら委員長と副委員長はあまり仲が良くないようだが、副委員長の方はかなり面倒そうな人物らしい。それならば、気の合いそうな委員長と仲良くしておいた方が良さそうだ。えり好み出来る身分でもないが、わざわざ嫌う人間とまで仲良くする必要はない。とにかく悠里のアドバイス通り、その菊本という人物には注意をしておこう。潜んでいる藪をわざわざ突付く必要は無い。
「もし何かあったら私に相談して。菊本の扱いは慣れてるから」
「分かりました。どうぞよろしく」
 とにかく、当分は当たり障りのない範囲で人付き合いをしていけば問題は無いだろう。今までのような分け隔てない態度は、かえって無神経さが際立ち余計ないさかいを招きかねない。まさにその菊本という人物はそうだろう。付き合う人数が増えれば、接し方も複雑になっていく。とりあえず遜れば良い、という認識は改めなければ。
「あの、見上さん……」
「なに、成美ちゃん?」
「いつまで悠里さんの手を?」
 そう言われ、ずっと握手したまま話し込んでいた事に気づく。随分夢中になって話し込んでいたらしい。失礼、とばつの悪そうに笑い手を離す。
 すると、
「あら、私は構わないわよ?」
 悠里は意味深に微笑んで見せた。
 意外な反応だ。
 とりあえず俺はいつもの癖で、どうとでも取れる意味ありげな表情で返した。