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 学校の主要な施設を一通り周り、夕方より少し早い時間帯に俺達は学校を後にした。帰りのバスには俺達以外に誰も乗っている者はいなかった。まだ授業中の時間帯だから、送迎というよりも単なる回送運転に近い。
 運転手の他に気になる視線も存在も無い。俺は一番後ろの長座席の真ん中に深々と腰掛け両足を放り出した。以前なら乗客がまばらでもやっていた事だが、白壁島ではその程度の行儀の悪い事にも気を配らなければならない。何とも息の詰まる状況である。
「しかし、凄い学校だったな。あれこれ金かかってるし、居心地良さそうだ。なんかうっかり留年しちゃいそうだ」
「そうですね」
 バスに揺られながらの道中、俺は思いつきでそんな話題を成美に振った。しかしそれに対して、成美はぽつりと一言答えただけだった。冷淡と言うよりも心此処に在らずといった、意識の無い返答である。視線もどことなく定まらず、何かを考え込んでいるような風だ。
 何だか様子がおかしい。悩み事だろうか?
「いやいや、留年しちゃ駄目でしょ」
「あっ……そうですね」
「どうかした? ボーッとしちゃって」
「いえ、何でもありません」
 そう平静を装って見せるが、不自然さは否めない。やはり、先程の水野さんとの事に付随した何かのせいなのだろうか? 本人が何でもないと言う事は、話したくないという事だ。余計な詮索をせず、こちらは憶測だけで黙っている他ない。
 どことなく気まずい空気のまま、やがてバスが商店街のバスプールへ到着する。バスプールの他の乗り場には違う路線のバスと、それらに乗降する人達の姿がちらほら見受けられた。夕食の買い物や夜勤の買い出しか、そんな所だろう。
「さて、じゃあちょっと買い物でもして、軽くお茶でもして帰ろうか」
「そうですね」
「成美ちゃんは甘いの好き? 俺も実は結構好きでさ、なんか時折無性に食べたくなるんだよね」
「私もそういうのありますよ。でも、そういう時は逆に表に出せないんですよ。さも欲しくないように見栄を張っちゃって」
「何でまた?」
「自分ががっついているような気がして、気後れするんです。あんまり好きな物に好きなまま飛びつくのはみっともなくて」
「好きな物ぐらい、好きに食べればいいじゃない。なんか損な性格だねえ。そういう人って欲しい物を手に出来なくて後から後悔するよ」
「でも難しいです。欲しいってなかなか言えないので」
 不自然な切り出し方ではあったが、早くこの気まずさをうやむやにしなければ顔も合わせ難い。成美は話し上手ではないのだから、こういう時は俺が動くしかない。成美はそんな気持ちを汲み取ってくれたのか、またいつも通りに返事をしてくれた。そういう空気だけは読める子なのは、本当に助かる。
 ぶらぶらとさほど目的も無く歩きながら商店街を散策する。成美がいれば家に帰れなくなる心配はしなくて良いため、俺は直感のままに通りと路地を行き来した。朝ほどでは無いが通りを行き交う人は、多かれ少なかれ決まってこちらに視線を向けてくる。だが、案外自分は適応力の高い人間だったのだろう、朝ほどそれらは気にならなくなった。必要以上にあると意識するから、かえって気になるのだろう。自分の中で優先順位を下げれば、いちいち気に留める事は無くなってくる。
「おっと、ちょっと待って」
 しばらく散策していると、不意に俺は路地の一角に気になる看板が出ているのを見つけた。
「どうかしました?」
「ほら、あれ。趣味の手芸だって。丁度蓬莱様の巾着に通す紐が欲しかったんだよね」
 手芸には興味は無いが、その専門店だったら欲しい紐が見つかるはず。そう思い俺は人生で初となる手芸専門店へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
 入るなり慇懃な態度で出迎えたのは、妙齢の女性だった。店の中から俺の姿を見ていたのか、それとも元々こういう性格なのか。いきなり使用人のような丁寧な態度で出迎えられ、俺は少し驚いた。
「何かお探しでしょうか?」
「ああ、んと、これ。この巾着なんだけどさ、こう首から下げられるようにしたいんだけど、何かいいのないかな?」
「かしこまりました。すぐに御用意いたしますので、そちらにおかけになってお待ち下さい」
 女性店員はすぐさま店の奥へと引っ込んでしまった。おそらく何か良さそうなものを見繕いに行ったのだろう。とりあえず俺達は勧められた通り、店の窓側に並んでいた和風の長椅子に並んで腰を下ろした。間もなく入れ違いに、中年の男性が奥から姿を現した。あの女性の旦那さんだろうか。彼は俺達の前に小さな丸テーブルを運んでくると、そこへお茶を二つ並べた。彼もまた態度は終始慇懃で、一点たりとも粗相はしないという緊張感に満ちている。ある程度予想はしていたものの、やはり長居はしたくない空気である。
 とにかく、早いところ買い物を済ませて店を出よう。そう苦笑いをしながら、出された緑茶をすすり女性店員が戻ってくるのを待った。
 やがて彼女が奥から長方形の形をした黒塗りの御盆を持って戻ってきた。彼女は御盆に乗せた幾つかの紐を一つずつ順に丸テーブルの上へ並べていく。自分で予想していたよりもずっと紐は様々な種類があり、俺はまずはその多彩さに目を奪われた。
「こちらは極一般的な、綿を編んだ紐です」
「ああ、よくある奴だね。これは?」
「こちらはゴムと綿を編んだゴム紐です。弾力性に優れています」
「ゴム紐ってこんなに種類あるんだ。でも、伸びきった所で顔に思いっきり飛んできたら嫌だな。なるべくなら、細くて丈夫なのがいいな」
「こちらはどうでしょうか。牛皮をメインに裏地はフェルトにしたものです。全体に防水加工を施していますので、雨や汗にも強いです」
「お、これはちょっと良さそう。色はチョコと朱色か。成美ちゃん、どっちがいいと思う?」
「私なら朱色かと。鮮やかなので、巾着に通しても違和感が無いと思います」
「やっぱそうだよね。うん、じゃあこれ下さい」
 長居したくない気持ちから、さほど紐を吟味せず手っ取り早く決めてしまう。包装もすぐに使うという理由で断った。実際に巾着に通すのは家に帰ってからでも良いのだが、またこの包装で大げさな事になるのではという危惧もある。長居をしたくないのは、自分のような人間にここまでしてくれるのは申し訳ない、という気持ちからくるものだ。正直な所、未だこういった大人に慇懃な態度を取られる事には慣れていない。
 早く店を出ようと、そそくさと皮紐を胸のポケットへしまい、ズボンのポケットから財布を出す。
「幾らになりますか?」
 すると、
「お代は結構です」
「いや、別に寄越せって言ったつもりはないんだけど……」
「緒方様からお金を戴く訳には参りませんから」
 店員は二人とも口を揃えて、俺からは代金を受け取らないと答える。俺は自分が怪訝な表情になるのを抑える事が出来なかった。緒方家から金を取れないという理屈は分かるがあまりに時代がかっていて、冗談で言っているのか本気で言っているのか混乱さえしてしまった。しかし二人にはとても冗談を言っているような素振りは感じられず、このまま気持ち良く店から送り出そうとさえしている。
 搾取。
 ふとそんな難しい単語が脳裏を過ぎる。まるで自分が、緒方家の威光を使って気侭に振舞っている、そんな想像をしてしまった。
 多分、この皮紐などさほど高いものでもないように思う。店にとっても大した負担にならないのかもしれない。けれど、このまま払わず出るのも躊躇ってしまう。少しくらい無理にでも置いて行った方が良いのではないだろうか? そう思った。
「参りましょう」
 この場をどうしようか考えあぐねていると、ふと傍らの成美が袖を小さく摘んで引っ張った。ここは店の好意を素直に受け取って出た方が良い。それが成美の意見のようである。まだ来て間もない俺は島の習慣も理解しかねる部分があるから、成美がそう判断したのなら従った方が良いのかも知れない。俺はこの場は成美に従う事にした。
「じゃ、じゃあ、遠慮無く戴きます。本当に、どうもありがとう」
 ぎくしゃくとしながら、後ろ髪引かれる思いで店を後にする。どうしてもこれは正常な事なのか、気にかかってならなかった。意に沿わぬ事を自分はしているし、しかも道理から外れている気もする。
 どうしても釈然とせず、店を出る際に、表に出ていた看板を再度確認した。店の名前は、趣味の手芸赤松と記されている。