戻る

 緒方家の屋敷への帰路についたのは、夕日が傾くよりも少し早い時間だった。
 まだ店での事が気にかかり、喉に何か詰まっているかのような釈然としない心境だった。善悪の問題ではなく習慣の違いなのかもしれない。ただ、それだけで埋められるギャップなのか甚だ疑問だ。
「たまに緒方家の人間からは、些細なものであれば代金を戴かないという方もいらっしゃるんです。あまりに気にしなくて良いですよ」
 そんな帰り道の途中、出し抜けに成美がそんな事を口にした。どうやら俺の顔が、如何にもあの出来事を気にしていると言わんばかりになっているようである。
「それって例のさ、緒方の人間が神様と思ってるって人?」
「概ねはそうなります。御布施の一部と考えて戴ければよいかと。純粋に信仰している方もいらっしゃれば、代々の習慣で少額の時だけする方もおります。どちらにしてもお心づかいですから、変に断らず受け取って構いませんよ」
「とは言っても、なんだかなあ」
「気になりますか?」
「なるってば、流石に。俺はヤーさんじゃないんだから。それに、お金を集める神様ってろくなのがいないんだぜ」
 御布施というのも、緒方家に対する畏敬の一種なのかもしれない。ただ、自分個人としては貰う言われの無いものを喜々として受け取る事には気が咎めてならない。代々の当主は一体どんな気分で受け取っていたのだろうか。やはり自分と同じように思い悩んだのか、それとも思い悩むのは俺が本土育ちだからなのか。
「難しく考えなくて良いんですよ? 見上さんは本土の方ですから戸惑うとは思いますけど、これは白壁島では当たり前の事ですから」
「いや、そういうものだと理解はしてるんだけどね? 理屈では分かってもさ、ほら、何となく。拝まれる分にはいいけど、具体的にお金が絡んでくるとさ良心が咎める訳よ。只で貰う言われも無いんだし」
「見上さんって、そういう所は真面目なんですね」
「あ、酷い事言うな成美ちゃん。俺って、根は真面目で純情なんだよ?」
 ともかく、余所者は郷に従うしかない。気持ちの問題はともかく、今までの当主がそうだったのなら自分も倣う他にないだろう。それに、成美の言う通り、俺は真面目に生きようとして物事を難しく考え過ぎているのかもしれない。蓬莱様に監視されていると思うから、些細な事にも過敏になる。蓬莱様は緒方家の当主として相応しいかを見ているのだから、個人的な善悪は問題ではないのだ。
「成美ちゃんは真面目な人がタイプなの?」
「えっ、何を急にそんな事を」
「うーん。この反応は違うな。ちょっとワルっぽいのがタイプだな? ぎりぎり社会からはみ出さないくらいの」
「勝手に決めないで下さい……っ」
 成美は頬を真っ赤にして顔を背けると、歩を速めて俺の前を歩きだした。相変わらず良い反応をしてくれる。そう思いながら俺も離されぬよう歩幅を合わせる。
 ふとその時、自分がやけに蓬莱様という存在を強く意識している事に気がついた。蓬莱様とは土着信仰のようなもので、科学的に存在する何かではないのだ。その何かに自分の行動が監視され善悪どうこうを気に病むのはおかしな話である。祖母が次期当主として期待し、それに応えようとするあまりはまってしまったのだろう。蓬莱様という存在に振り回されてはならない。
 屋敷に到着し成美と別れると、早速俺は自室へ戻り蓬莱様と予期せず戴いてしまった朱色の皮紐を取り出し作業にかかった。
 元々蓬莱様を収める巾着には、口を締めるための細い紐とそれを通す穴が幾つか空いている。皮紐はその穴を通すのに丁度良い太さで、一度紐を抜き穴を二つ飛ばして通し結び直すと、空いた穴に皮紐を通し首から下げるのに丁度良い長さに調整する。胸元をぶらついても思ったよりも気にならない大きさだったが、何かの拍子で前のめりに転んだら相当痛い目をみるだろう。そんな怖い想像をし、背筋を震わせた。
「裕樹様、浩介です。よろしいでしょうか?」
 出来上がりを確かめていたその時、浩介が部屋を訪ねてきた。構わないから入ってと答え、浩介は静々と戸を開けて厳かに入ってくる。相変わらず、中学生になったばかりとは思えない礼儀正しさと俺は思う。こういう基本的な礼儀の出来ない自分は、これからは必ず覚えていかなければならないだろう。
「裕樹様のお荷物が届いております。下の物置にまとめて保管しておりますが、どのようにいたしましょう?」
「そういや、そうだったな。当面必要なものだけ持ってくるかなあ。取りあえず場所だけ教えてよ」
「承知しました。では早速参りましょう」
「あ、そうだ。ちょっと待って」
 ふと思い立った俺は、タンスに仕舞っていたバッグを引っ張り出し、奥に突っ込んでいた真新しい封筒の束を取り出す。前の学校に何かの書類を送るために買ったものの余りで、実際に何を送ったのかは水野さんに任せてしまったので覚えていないという代物だ。そこから封筒を一つ取り、続いて財布からとりあえず千円札を抜いて封筒の中へ収める。封はシール式ではなかったので、取りあえず折り曲げておく。
「ちょっと別件で頼みがあるんだけど、いい?」
「はい、何なりと」
「知ってたらでいいんだけどさ、赤松って店分かる? 手芸の店なんだけど」
「名前ぐらいは。でも場所はすぐ調べられますから大丈夫です」
「それなら良かった。今日じゃなくてもいいんだけどさ、店の人にこの封筒届けて欲しいんだ」
「分かりました。お預かりします」
「悪いね。それとさ、出来るだけ誰にも知られないようにして欲しいんだ。特に成美ちゃんには」
「成美さんにですか? 何か不都合でも?」
「まあ、色々あるんだよ。野暮な事は無し無し」
 浩介は不思議そうに首を傾げながら封筒を作業着の内ポケットへ大事に仕舞い込んだ。それを確認した俺は、荷物の所へ向かうべく浩介を無理やり急き立て一緒に部屋を出る。そうする事で浩介に余計な質問をさせる機会を奪いたかったのだ。
 どうしても成美に隠す必要があったかと言えば、必ずしもそういう訳でもない。ただ、成美の判断を否定するようで申し訳ない気持ちが少なからずあった。やはり俺はまだ白壁島の習慣には馴染めない。だから今はまだ、自分の思う通りにしたい。善悪との兼ね合いも含めてだ。