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 初登校となる朝、俺は普段よりも早い時間に目を覚ました。まだ鳴っていない携帯のアラームを先に解除したのは初めてかもしれない。
 自分の部屋にはテレビや漫画といった娯楽を一切置いてはおらず、昨夜は早々と就寝したのが早く目覚めた理由だろう。送った荷物にはコンポや漫画もあるのだが、結局気が進まずそのまま物置へ残している。こういったものを部屋に置くと今までのような自堕落な生活になってしまうのではないか、そんな危惧もあるのだ。
 顔を洗い服を着替え、今朝は一人で食事の部屋へと向かう。今日は成美は部屋へ起こしには来なかった。毎朝来てくれるのかと思ったが、どうやら初日だけのようである。落胆するとか大げさな話ではないが、少しばかり物寂しい気もする。
「裕樹、今日がら学校さ通えやな。ちゃんと勉強するんだで」
「うん、分かってるよ祖母ちゃん」
「蓬莱様はちゃんと持ってるが?」
「この通り。これからずっと首から下げてるよ」
「そうかあ、ちゃんと忘えないでなあ」
 祖母と和やかに会話しながら朝食を取る。祖母は今朝もほとんど食事を取らず、昨日よりも一回り小さくなったようにさえ感じる。本当にあまり長くないのだと、俺はつくづく実感させられる。だからこそ、これから自分には厳しく出来る、そんな意気込みがあった。
「失礼します」
 朝食を済ませのんびりとお茶をすすっている時だった。不意に聞き覚えのある声の主が部屋を訪れる。はっと息を飲み胸が一度強く高鳴る。振り返ったのはそれとほぼ同時だった。
「玲子か。入らい。何した?」
 祖母の言葉で現れたのは水野さんだった。シンプルなダークスーツを颯爽と着こなし、涼しげな様相で厳かに一礼する。
「縁様が裕樹様をお迎えに上がっております」
「縁? ああ、悠里さんか。え、俺のこと迎えに来たの?」
「はい。ただいま玄関にてお待ちです。始業までのお時間も迫っておりますので、お急ぎを」
「分かった。じゃあ祖母ちゃん、そろそろ行ってくるね」
「あい、気をつけでな」
 祖母と挨拶をし部屋を出る。登校の準備は昨夜の内に済ませているので、部屋へ行って荷物を取ってくればすぐに出られる。どうせまだ初日で教科書も無いのだから、荷物なんてそもそもほとんど無いのだが。
 迎えに来てくれたのだから、そう待たせる訳にもいかない。急いでカバンを取って来なければ。だがそのその前に、俺は水野さんの前で足を止める。今回は何から何まで世話になっていながら、まだ御礼の一つも述べていないのだ。
「水野さん、御無沙汰です。昨日戻ってきたんですか?」
「はい。残務整理の方は全て滞りなく終わりました。支払い金等の事はまた後ほどお伝えいたしますので、今はお急ぎを」
「うん。何て言うか、本当に何から何までありがとうございました。俺、水野さんいなかったらどうなってたか分からないよ」
「緒方家に仕える者として当然の事です」
 聞きようによっては、ただの仕事ですと跳ね退けられたようにも解釈出来る。いや、むしろ単純に仕事の一環なのかもしれないが。しかし俺は疎外感もさほど感じはしなかった。それよりも、明確な主従の線を引かれているように思う。相変わらず水野さんは表情に抑揚が無いのも、その一線を弁えているからなのだろう。水野さんの無表情さは、冷たいとか無愛想というよりもクールで格好良いという印象がある。成美とは違って軽口を叩いても簡単にあしらわれてしまいそうで近寄り難いが、そういうのもまた魅力的だなと俺は思った。
「あ、そうだ。成美ちゃんは知らないですか? もう行っちゃったかな」
「成美は本日体調を崩しております」
「え、ホントに? 大丈夫なの?」
「ただの体調不良だそうですから問題は無いかと。何か御用でしたか?」
「いや。とりあえず、お大事にって言っておいて下さい。それじゃ」
 ゆっくり長話をしている場合でも無い。程良い所で俺は自室へと向かって足を速めた。普段なら着替えの時間も必要なのだが、実質私服のような学校だから、その手間が無いのは良い。
 部屋に戻り、カバンを持ってすぐに飛び出し玄関へ急ぐ。途中何度か使用人と擦れ違ったが足を止めている暇は無く、軽く会釈程度で通り過ぎる。
 もう少し時間に余裕があれば、出る前に一度成美の様子を見に行きたかったが、さすがにもう遅いだろう。帰ってきてから誰かに部屋を聞いて見舞いに行く事にした方が良い。今思い返してみれば、昨日から成美の様子は少しおかしかった。おそらく既にあまり体調が良くなかったのだろう。無理をして俺を案内したのだから、体調を崩してしまったのかもしれない。見舞いの時は何かを買って持って行ってあげよう。
 玄関まで下りて来ると、またしても使用人達がずらりと並び俺が来るのを待っていた。しかし今朝は玄関に別な姿が立っている。
「あ、悠里さん。お待たせです」
 悠里は無言のままにっこり微笑み一礼する。何も言わないのは、ここが緒方家の屋敷だからだろう。確かにこの光景だけでも普通の神経なら思わず口篭ってしまう。
「んじゃ、行って来ます」
 介助させる暇も与えずに手早く靴を履くと、俺は悠里と共にそそくさと玄関を飛び出した。後ろから使用人達の挨拶の大合唱が聞こえる。自分一人のために毎朝こんな大騒ぎをするというのも気が滅入る話である。あまり構わぬよう、一度祖母か水野さんに相談した方が良さそうだ。
「いやあ、毎朝あんな調子みたいですね、緒方家って。悠里さんもびっくりしました?」
「話には聞いていたから。ところで、裕樹君はびっくりしたかな?」
「何がです?」
「私が突然迎えに来たから」
 玄関から正門まで、中庭は軽く散歩するほどの距離がある。バスの時間は良くは分からなかったが、悠里の歩調はさほど急いでいない。おそらく、こんなペースでも十分間に合うのだろう。
「いやあ、一人で行くのはちょっと不安でしたから。嬉しいですよ」
「ありがとう。そう言えば、成美ちゃんはどうしたの?」
「何か体調崩したみたいで。今日は休みです」
「そうなの。急に忙しくなったものね」
 確かに成美はこれから俺の世話を主にする事になる。そういった辺りにも何か精神的な疲れがあったのだろう。自分もあまり馬鹿なことをして悩ませないように気をつけた方が良さそうだ。
「でも、学校の事は私に任せて。ちゃんと御世話してあげる」
「どうぞよろしく、委員長」
 世話という単語に妙な言い含みを感じはしたが、取りあえず転校初日は何とか成美に頼らずとも乗り切れそうである。昨日下見をしてきたとは言っても、初めての転校且つ白壁島という異質な文化を持った地域だけに、正直不安は否めない。けれど、俺はそういった心配事も長く続いた試しは無く、案外今度もいつの間にか気にならなくなっているだろう。
「別に部代表だから来ている訳じゃないのよ?」
「じゃあ個人的に? それなら尚更嬉しいなあ」
 そんな俺の返答に、嘘ばっかりと笑いながら答える悠里。さて、真意はこんな軽いものなのかどうか。そもそも深く人の機微に突っ込まない俺は、あまり露骨な探りも入れなかった。