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 悠里と談笑をしながらバスプールへと向かう。その道中、相変わらず行き交う町の人々の視線は突き刺さるようで、畏敬や崇拝といった特殊な感情が遠慮無く伝わってくるのは実に複雑な気分だった。一人ではとても涼しげに歩くのは難しいかもしれない。悠里との会話する頭の片隅でそんな事を考えた。
「悠里さん、朝ってやっぱりバスは混みます?」
「そうでもないわよ。席が疎らになるくらいだから。大丈夫、みんな緒方の御曹子を立たせたりしないわ」
「いや、それ冗談抜きでキツイっすよ」
「そうね。そういう時は女の子を先に譲ってくれなきゃ」
 そう冗談めいて答える悠里に俺もまた笑う。考えてみれば、悠里は委員長ポジションの仕事とは別に迎えに来てくれたのだから、一線を引いて接する周囲とはまた違った立位置を緒方に取っているようだ。不遜なのか、それとも俺の事情を察してくれているのか。少なくとも、緒方の威光を持て余している自分にとっては都合が良い。
 朝のバスプールには既に数名の生徒が並んでいた。制服は着ていないものの、いずれも重たげな鞄を背負い中にはもう一つ別の鞄の二つを持っているのもいる。多分部活動に使うものなのだろう。そう俺は思った。
 俺達も列に並ぼうとそこへ近づくと、生徒達はしきりにこちらへ視線を向け声を潜め何かを囁き始める。表情は昨日も見たような、如何にも興味津々といったものである。一斉に列順を譲るような事が起こらないことには些か安堵したが、これはこれで少々居心地が悪い。
「みんな裕樹君が珍しいのよ。そもそも、本土の人間も滅多に見れないから」
「自分が珍獣扱いってのは分かりますよ」
「そんなに卑下しないの。別にファンではないけど、テレビでは良く見る芸能人はいるでしょ? それが目の前にいるから興味があるというだけよ」
「じゃあ悠里さんもそんな感じ?」
「さあ? でも、もしファンならどうすると思う?」
 そう意味深な事を言って微笑む悠里。何やら思わせぶりな、いや何かを言わせようとしている、そんな雰囲気がある。ひとまず、深く突っ込んだ話をするには周囲の視線が多過ぎる。俺も特に何も無い思わせぶりな笑みでそれを返した。
「ところで、次のバスは何時ですか?」
「本当ならもう着いてる頃なんだけど、いつも通り遅れてるみたい」
「なるほど。おおらかでいいなあ」
「田舎っぽいでしょ。あ、おおらかじゃないのが来たわね」
「何が?」
「ほら、あれ」
 そう悠里の指を指す先にいるのは、一人の男。自分と同じぐらいの歳に見えるから、おそらく高等部の学生だろう。憮然とした表情でこちらに向かっているが、明らかに悠里が指を指す仕種に目で見て気付いている。
「なんだ、悠里。お前、何人を指す」
「ほらね。おおらかじゃないでしょ?」
 そう悠里は俺に呆れて見せるが、その男は明らかに不愉快そうに表情を歪めている。どう見ても悠里がケンカを売っているようにしか思えない。そんな構図だ。
「こいつが昨日言った菊本。例の気難しい奴よ」
 呆れ顔で悠里に紹介され、菊本という男は更に不機嫌そうな表情を浮かべるものの、こちらへ向き直り咳払いを一つし畏まった顔に表情を正す。随分眼球が大きい顔だ、そう俺は思った。
「お初にお目にかかります、緒方様。自分は菊本一哉と申します」
「どうも。でも俺、まだ緒方じゃないからさ、見上って呼んで」
「見上、ですか?」
「そう、見上裕樹。当主になるための見習い期間中なんだよね。ほら」
 そう言って首から下げる蓬莱様を軽く掲げて見せる。
 しばし無言でそれを見つめる菊本。しげしげと見つめるその顔の造形は、まるで地蔵のようだと俺は思った。案外触ってみると石のような感触がしそうだ。そんな事を考え、噴き出しそうになるのを堪える。
 そして、
「そうか。緒方家の居候というのなら畏まる事もないか。下げなくていい頭を下げたもんだ」
 菊本は舌打ちを一つし、俺の顔をじろりと睨みつける。あからさまに悪意のある、そんな視線だ。
「え?」
「おい見上、俺はお前より目上の人間だ。馴れ馴れしい口は利くなよ。都会だかのルールなんか通じんからな」
 そう吐き捨て、菊本は列の後ろの方へ消えて行った。
 俺は呆然と立ち尽くしたままその背中を見送った。これほど見事な心変わり、露骨な態度の豹変は、生まれて初めて見た。よく恥ずかしくないのか。到底俺には真似の出来ない事である。
「ね? ああいう奴だから、あまり相手にしないでいいのよ」
 呆然とする俺の肩を悠里が溜息をつきながら叩く。確かに面倒な人間に違いない。俺はこくこくと力無く頷いた。