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 朝礼から一限目までの僅かな時間、教室から教師がいなくなるその時間帯。俺は悠里以外の周囲の生徒から話しかけてみる事にした。しかし以外にも、こちらから話しかけるより前に話しかけて来る生徒も珍しくなく、中にはいきなり呼び捨ててくるような馴れ馴れしい者さえいた。ただ、転校生に対する物珍しさと親切心から来るようなもので、菊本のような不遜で苛立たされるような要素は一切無かった。緒方の人間だからと気後れされる不安はあったが、みんなは恐る恐るながらも受け入れてくれている感じがした。
「裕樹君は、どうして緒方の苗字じゃないの?」
「まだ来たばっかりだからね。役所にも籍の変更みたいなやつ? 届出は出してないから」
「時期も時期だし、随分急に転校してきたけど、親の転勤か何か?」
「まあ、そんなとこ。ちょっと複雑だから、察して貰えると助かるなあ」
「何か苦労してるんだね。こっちは本土と比べて田舎だから色々大変でしょ?」
「ううん、思ったより栄えてるからびっくりしてるよ。携帯の圏外が無いだけでも凄いもん」
 興味を抑え切れないのか、単に田舎だからなのか、いきなり核心に迫るような質問も遠慮無く飛んで来る。俺は答えられる分には答え、そうでないものはさりげなく濁した。特に家族関係の事はまだ話したくはなかった。内容が重過ぎて場の空気をおかしくするのも避けたいが、何よりまだ自分の中で租借し切れていない部分があり冷静に話す自信が無いからだ。
 そんな他愛の無い話をしている内に一限目が始まった。周りに集まっていた生徒が一斉に自席へ戻り、俺も授業の準備とばかりにペンケースとあまり使われていないルーズリーフを机に並べる。起立礼着席の音頭を誰かが取り、授業が始まる。俺は談笑している時の浮ついた気持ちを切り替え、シャーペンの頭を三度ノックする。
 日常の一部と銘打ってわざわざ切り取るまでもない、有り触れた光景である。本当にただそれだけの事だが、実に気持ちが癒された。大勢と気兼ね無く談笑する事にこれほど飢えていた事には驚かずにはいられなかったし、今まで学校の授業など退屈でしかなくて如何に居眠りするか漫画を読むかなどしか考えていなかったのに、今日は授業を受ける事を随分待ち焦がれていた自分に気が付かされた。多分、自分では俄かに信じ難い事が立て続けに起こったせいで、そういった平素の生活を早く取り戻したいという願望があったのだと思う。そして俺にとっての日常とは、楽しい談笑と退屈な授業の二面だ。少しでもそこに深く没頭したい、そうすれば精神の均衡は保つ事が出来る、そんな切羽詰った自分の内情が伝わってくるようで思わず苦笑いを浮かべる。
 授業は、各教科の担当教師がそれぞれの学年ごとに異なる内容を教えるという、非常に変則的なものだった。クラスの生徒の席順が、廊下側から一年二年三年の列となっていて、ある項目について説明した後に課題を出し、それに取り組んでいる間に他の学年に同様の解説をする、そんなものの繰り返しが授業の主な流れである。普通の授業に比べて効率はあまり良くはないのかもしれないが、その分勉強がさほど得意ではない自分にとってゆっくり進む授業はありがたかった。分からない内容があっても、後から確認するために書き留める暇があるだけで有意義に思えてくる。
 一限辺り六十分という前の学校とは異なる授業時間で四コマを終え昼休みに入る。やはり昼休みともなると、生徒の動きは途端に活発になり教室の出入りが激しくなる。まだ筆記用具も片付けていない内から飛び出して行く何名かを見て、前の学校でもああいった落ち着きの無い類がいたものだとしみじみ思い出す。そして、比較的のんびりと出る生徒は弁当持参で飲み物を買いに行くのか、学食組だろうか。
「裕樹君はお昼はどうするの? 私達は学食に行くけれど、一緒にどう?」
 そう誘う悠里の周りに集まるのは、何人かの男女の姿。まだ話をしたことのない顔も沢山あり、その人数も朝より大分増えている。昼食よりも転校生に興味がある、そんな顔つきが多い。
「俺も行きます。なんか成美ちゃんに聞いたんだけど、結構凄いとこなんだって」
「そんな事ないわよ、田舎の学校だもの。都会の方が凄いんじゃない?」
 悠里に連れられ、その他数名の団体で教室を後にする。まだ教室に残っている何人かの視線も気になったが、どちらかと言えば話し掛けるタイミングを逸したように見え、疎外的なもので無いのなら慌てる事もないだろうと俺は思った。
 成美の話によると、学食には量ありきのようなイメージしかない俺の想像とは違い、随分品揃えの充実した食堂という事らしい。校舎の充実ぶりから鑑みれば、相当期待出来るのではないだろうか。
 昨日は遠目から少しばかり見た学食へ到着する。入口の脇にはデパートの飲食店にあるようなショーウィンドウがあり、中には様々なメニューの見本が飾られている。その手前にはコルクボードが立てかけられ、そこに日替わりメニューの写真が何枚か留められている。みんなはまずその写真をチェックしてから中へ入る段取りのようだった。
 学食の中には既に何名かの生徒の姿が見受けられた。真っ先に教室を飛び出した顔もあったが、見覚えの無い顔も幾つか見受けられる。明らかに小学生と思える年少もいるため、中小等部の生徒も入り交じっているのだろう。
 システムは食券を買って窓口で引き換えるタイプで、前の学校と同じだった。しかし券売機の数とボタンは倍以上もあり、目当てのものを捜すにも一苦労する。あまり券売機の前でただ立っているのもどうかと思い、結局は一番目立つ日替わりのボタンを押した。
 それから券と引き換え席に着くまで、何度立ち止まり都度教えて貰ったか分からない。知らないシステムでもないし戸惑うのは環境が違うせいだとは思うけれど、周囲がよそ見しながらも手順良く進んでいる様には焦りを感じずにはいられなかった。
 全員が席に集まり早速食べ始める。自分は日替わりのミックスフライだったが、周囲はいずれも違うメニューである。カレーやらラーメンぐらいなら分かるが、中華の一品料理や刺身の盛り合わせまでなると本当に学食なのかと思わず疑ってしまいたくなる。おおよそ街中で食べられそうなものは大概が揃っている。そんな印象だ。
「今日の日替わりは地味ね。残念、外れ」
 そう言う悠里のメニューは、朱塗りの小さな重箱が三つ並んだ、一見すると持参した弁当箱かと思うようなものだった。
「悠里さんのは何?」
「これは女性限定メニューよ。時々あるの。せっかくだから、無くなる前に食べたいじゃない」
 きっとカロリーが少ないとか、そういうものだろう。悠里さん別に太ってるように見えないのになと思う一方で、わざわざ限定メニューなどとそんな企画物まである事には感心すらしてしまった。前の学校だと、限定メニューなんて夏だけの冷し中華ぐらいしか聞いたことが無い。
「でも本当に凄いなあ。メニューもそうだけど、テーブルとか綺麗だけじゃなくてデザインもこってるし。長居したくなる」
「やっぱりそうなの? 白壁島はこういう所に沢山お金を使ってるらしいから、普通の学校より凄いのかしら」
「全然凄いです。なんかどっちが田舎の学校か分からないくらい」
 白壁島の方がよほど都会的だ。多分そう聞こえたのだろう、悠里も含めみんながきょとんとした顔でこちらを見返す。こんな電車もない辺鄙な場所の学校より、飛行機すら飛んでいる大都会の学校の方が劣る。まさかそんな事があるはずがないだろう、そういう顔だ。
「成美ちゃんの話だと、緒方家が結構お金出してるらしいですね」
「そうね。学校に限らず、緒方家は島全体のあちこちに出資してるみたいよ」
「社会貢献活動ですか? もしくは税金対策」
「いえ、緒方家の少子化対策ってところかしらね」
「少子化対策?」
「白壁島も年々過疎化が進んでるみたいだからね。少しでも島が住みやすければ、若い人もあまり島を出ようとはしないでしょ?」
 その言葉に、少しだけ刺さるような痛みを覚えた。よく考えてみれば、俺の母親はその島を出た若者の一人になるからだ。しかも、よりによって緒方家の人間である。果たして当時の皆はそれをどう見、思っていたのだろうか。さすがにすぐは訊いてみる気にはならなかった。