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 悠里とは途中で別れ、俺は一人家路に着いた。
 屋敷に到着すれば、どこからか俺の帰りを嗅ぎ付けたらしく玄関で使用人達がずらりと整列し出迎えてくれる。俺は愛想笑いだけでも浮かべ、そのまま足を引きずるように自室へ向かう。
 部屋に入ってまずした事は、足元へ鞄を置くこと。その次は目の前へ雪崩込むように突っ伏す事だった。初日だけあり、慣れない事ばかりで一日中緊張していたせいかどっと疲れが込み上げてきた。それだけでなく、人間関係も思った以上に煩雑で相当な使い分けが必要になってくる事も分かった。勉強もついていけるかどうか不安の拭えないレベルである。その上悠里にも指摘されたが、緒方家以上に俺の家族関係は複雑で、何かしらの方便も使い分けなくてはいけない。
 とにかく、考えるだけでも憂鬱だった。あまりにやらなければいけないこと、頭を悩まされる事が多いのだ。元々頭を使ったり悩んだりする事とは無縁に近い生活をしていただけに、この反動は大きい。
「当主になるって大変なんだなあ……」
 思わず呟いたその一言。それはまさに、自分が決めたはずの覚悟はどれだけ甘い認識で決めたものなのか、その証明に外ならない。早くもくじけるのか。そんな嘲笑いが聞こえてきそうだった。反骨精神とは無縁のため、馬鹿にされればそれなりに受けるだけである。何事にもたぎりのない性格は心象が良くない。ともかく、理想のハードルを多少下げてでも日々の生活サイクルを作らなければ。直近の目標はそれになる。
「あ、そうだ。成美ちゃんにお土産買うの忘れた」
 ふと、今日は成美が体調を崩している事を思い出す。帰ってから見舞いへ行くのに手ぶらでは何だからと思っていたのだが、目先の事を追うような一日だったせいで、すっかり忘れてしまっていた。
 見舞いと言えばフルーツが定番だが、そんなものは手元にない。今から買い出しに行けばまだ間に合うだろう。しかし、それは気が進まなかった。疲労感もそうだが、今の自分はコンビニへ行くにしても安易には出難い身の上なのだ。
 忘れたのであれば仕方ない、様子を見るだけでもしよう。
 そんな事を考えていた時だった。
「あのう、裕樹様?」
 突然聞こえて来た浩介の困惑した声。それもドア越しのそれではなく明瞭な音だ。
 しまった、部屋を開けっ放しのままだった。
 すぐに上体を起こし振り返ると、俺は更に驚きで息を飲んだ。部屋の前にいたのは浩介だけではなく、水野さんもだったからだ。浩介は見てはならないものを見たとばかりにばつの悪そうな表情をしているが、水野さんは普段通り抑揚の無い無表情のままだった。
「お疲れの所申し訳ございません。そよ様からの御言い付けです」
 そう告げ一礼する水野。俺はすぐに姿勢を整え正座すると、向かって応えるようにおずおずと会釈する。
「まずはこちらに必要な荷物があるのですが、宜しいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
 浩介はやや小振りなダンボールの箱を抱えている。それが水野さんが言うところの必要なそれらしい。浩介は一礼して部屋に入ると、まだあまり使っていない勉強机の上にそれを置いた。中から取り出したのは、一台のノートパソコンだった。それを机の上に置き、更に電源コードやマウスなどを手際良く繋いでいき、最後に電源を投入する。
「こちらの端末は今後自由にお使い頂いて結構です。回線も既に設定済みですので」
 起動を終えたパソコンを浩介が手慣れた手つきで操作し、ブラウザを立ち上げる。回線は無線らしく、すぐに外部のサイトが表示された。
「この屋敷って、インターネットも入ってるんですね」
「正確には、白壁島全世帯がそうです。島内ならどこでもこの設定のまま使えますので、外へ持ち出しても不便は無いでしょう」
 なんてネットワークが行き届いた地域なのだと俺は感心した。しかし、携帯電話の圏外の無い白壁島なら、固定回線がそれくらい整っていても違和感はない。実際、神様などを信じ切っているような年寄りなどは使ったりしないのだろうが。
「ありがとうございます。良い気晴らしになりそうです」
「いいえ、裕樹様。恐縮ですが、そよ様は気晴らしのためだけに御与えになったのではありません」
「え?」
 小首を傾げ問い返す俺に、水野さんは小脇に抱えていた一冊のバインダーを差し出してきた。最近作ったものらしく、インクの独特の匂いが漂い、表面の光沢からは真新しさが感じられる。受け取ると、背表紙の尋常ではない厚さとびっちりと詰まった中身から想像はしたが、片手では重く感じるほどの重量感があった。
「本日より、夕食後は別途カリキュラムを受けて頂きます」
「それって、当主のための特別授業みたいな?」
「はい、その通りです。不祥ながら、私が講師を務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします」
「はあ……」
 当然の事だが、家に帰ってまで勉強などやりたいはずもない。それが最も純粋な本音である。しかし、当主になるため、と前置きがあるとなれば無下に断る事も出来ない。一日も早くまともな当主となり祖母を喜ばせると決めたのだから、やらなければいけない事はどんな事でも甘んじなければならないのだ。
 どうやら当主になる事の難しさは、まだまだ認識が甘いようである。
 俺は溜息を漏らさないようにするだけで精一杯だった。