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 夕食後、風呂に入って一休み。自室にてバインダーをめくっていると、水野さんがやってきた。当主となるための特別授業である。小学生の時は居残りを、中学生の時は受験対策授業を、そして高校では去年の冬休みに補修授業をした。そんな、普段の学校生活とはまた違う勉強を思い出す。
 教材は予め渡されているバインダー、それから参考資料としてインターネットを使う。しかし、調べ物などに使う事がほとんど無い俺にとって活用の仕方が分からず、それすらも教えて貰わなければならなかった。一般常識かどうかはともかく、水野さんは出来て当たり前と思っている事を出来ないというのはばつが悪いと言うか恥ずかしかった。
 それでは始めます、という水野さんの宣言で授業が始まる。
 一対一の勉強なだけに、学校の授業のような気の抜けた態度を取る事は出来ない。ただひたすら授業に集中するのみ。そう自分を戒める。家庭教師の経験は無く、それはきっとこういうものなのだろうと雑念を一つ二つ脳裏を過ぎらせたが、妄想とは違って水野さんは終始無表情で淡々としているだろう。悠里とは違い、何かしら冗談を言っても何事も無かったかのように受け流される。そんな空気をちょっとしたうっかりで作ってしまうのはあまりに馬鹿馬鹿しい事だ。
 水野さんの授業は学校の授業とはまた異なる内容だった。国語や数学などの教科を想像していたが、最初に出されたのはごく身近な例を挙げての計算だった。さすがの俺でも四則演算程度に困るほど頭は悪くない。計算そのものは何の苦もなかった。ただ、何に対してどういった理由からどんな計算をするのか、具体的な案件に当て嵌めることになると、いましがたたやすく解いたばかりの計算が急に意味不明な記号の羅列へ化ける。また、数式に当てる単語も意味どころか聞いた事すら無いものが少なくない。工数とか人員だとか、そういった単語と意味はこの先絶対に覚えておかなければならないものだという。それだけで既に俺は目の前が暗くなりそうだった。
 水野さんによるこの勉強は多分、何々という教科ではなく水野さんが考案した独自のものなのだろう。まさに当主となるために必要な専門学なのだそうだ。ただ、内容の意味すら理解出来ていない俺には具体的に何が何にどう役立つのかもほとんど分からなかった。
 この程度は基礎的な知識であって、それすらも分からないからわざわざ水野さんは時間を割いているのだろう。そして、そこまでしてくれているにも関わらず肝心の俺の出来が悪ければ、果たしてどれだけ失望させる事になるのか、想像するだけでも恐ろしかった。だから俺は、ひたすら頑張るしかない。けれど、水野さんは相変わらず何を訊ねても淡々と受け応えるばかりで、俺の出来不出来の度合いは全く察する事が出来なかった。それだけに、水野さんの沈黙はそのまま威圧に感じてしまう。
 丁度開始から二時間ほど経って、設問の区切りの良いところで唐突に終了が告げられた。水野さんは最後に簡単な宿題を一つ渡し、一礼して部屋から去っていく。俺はそれをいつも通りの調子の笑顔で見送り、そして脱力する。普段はあまり顔の表裏を意識した事が無いだけに、こういった嘘の笑顔を貼り付ける事ばかり繰り返していると本当に表裏が出来てしまいそうで気分が重く沈んだ。
 ただ一つ、あまりに慣れない授業だが当主になるために直接必要な授業でもあり、それをやりきった疲労感が実に心地良かった。目的に対して確実に前進している。その思いだけでも随分気は楽になる。
 さて、寝る前に宿題を片付けておくことにしよう。
 俺は気だるい体を無理やり起こし、再度机に向かった。水野さんの宿題は早めに終わらせておかなければ、寝る時間が遅くなってしまう。結局、今日は成美の所へ行けなかったから、明日は早く起きて様子を見に行く。だからあまりだらだらと時間はかけていられないのだ。
 早速テキストを開き宿題に取り組む。直後、今日はまだテレビを見ていない事に気が付いた。けれど、それ以上は特に気にも留めなかった。そんな場合ではない。その思いの方が強かったからだ。