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 お友達と遊びさ出はるのも大事だから、行ってござい。
 夕食時、連休の件で祖母に恐る恐る訊ねてみたところ、そんな言葉であっさりと許可が下りた。あれこれと長々説教される事も覚悟していただけに、この反応には脱力感すら覚える。
 ともかく、許可が下りたのなら何の気兼ねも無く出かけられる。夕食後、すぐさま幹事役へメールを送る。すぐに返信がきて、まだ予定は出来ていないが参加の確定を歓迎してくれた。予定では明後日の午前中に集合、その明日同時刻頃に解散になっているそうだ。実際細かな予定はそんなもので、いつもいきあたりばったりでやっているという。自分もあまり計画的な方ではなく、思いつきで遊びに行く事がほとんどだから、かえってそういう雰囲気の方が気兼ねをしなくて良い。
 久々に大騒ぎ出来るとあって、俺は浮かれずにはいられなかった。しかし、授業は授業でちゃんと受けねばならない。早くも逸る気持ちを抑えるのに四苦八苦するが、いつもの時間通りに授業の準備を終わらせ水野さんを待った。
 開始時刻調度に水野さんが部屋へやって来る。いつも時間には正確で、一日の行動を全て分単位で管理しているのではないかと思う。やがて自分も当主になれば、そういう風に管理しなくてはいけなくなるのだろうか。そんな不安があった。
 授業が始まる前、早速俺は連休の事を切り出した。
「水野さん、連休中に泊り掛けで遊びに行くんですけど」
「そよ様より伺っております。連休中につきましては、一旦授業はお休みさせて戴きますので、どうぞ気兼ねなくお過ごし下さい」
 そう水野さんはさして表情も変えず淀みなく答える。どうやら祖母から既に話は来ているらしい。
 祖母の決定なら従うのだろうが、水野さん自身からは賛成も不満も感じ取れない。淡々とした素振りからして、言われたまま受け入れたように取れるのだが、果たして納得した上での事なのかと今更そんな不安が脳裏を過ぎる。
「でもさ、大丈夫なのかな?」
「と仰いますと」
「いや、あなたは今遊んでいるような状況ではございません、って来るかなと思ってて」
「私の態度に気を悪くされていたのでしたら申し訳ございません」
「そ、そうじゃなくてね。うん、まあ、その、言葉通りっちゃ言葉通りの事でさ。俺、本当に遊んで大丈夫なのかなって思って。祖母ちゃんは許可しただろうけど、水野さんも都合があるんじゃないかな」
 そう不安混じりに訊ねる俺の顔を、水野さんは無言で一呼吸、見つめる。俺が何を言わんとしているのかを詮索しているのだろうか。言葉足らずの自分と、その顔を見られる事が気恥ずかしく思い居心地が悪い。
「裕樹様は、明日にでも当主を務め上げられるようにならねばと急いているのではありませんか? でしたら、それは思い違いです。そよ様は、裕樹様に当主を一任出来るまでに必要な期間を一年二年で済むとお考えになってはおりません。私が裕樹様にこうして施す教育はあくまで最低限のものであり、重要なものは実務を通して習得して戴きます。無論、そよ様や私のフォローアップもあり、それを完全に不要となるまでは更に期間が必要と考えております」
「一人前になるまで数年かかるってこと? でもさ、当主には半年以内になるって聞いたんだけど、それはまた別?」
「半年というのは、心構え、もしくは一つの節目とお考えになれば宜しいかと。決して極短期間で高度なものを習得することを要求しているのではありませんので、焦って根詰める必要はありません」
「そっか……。うん、そうだよね。確かに、無理は良くない」
 自分が考えていたよりも状況は深刻なものではないらしい。祖母も水野さんも過度の期待を俺にしている訳ではなく、一から教育し段階的に当主としての業務をさせていく、非常に現実的な計画があるのだ。自分一人で今日明日にでも何かをやれるようにならなければと焦る必要もなく、そんな事が現実的に不可能だというのも初めから承知の上なのだ。
 祖母に蓬莱様を渡されて以来、漠然と渦巻いていた不安感が幾分か軽くなっていくのを感じた。将来的に見れば普通よりも多くの事を学び習得しなければならない状況は変わらないが、少なくとも自分が想像しているような極端なものに追い込まれている訳ではない。水野さんの言う通り、自分を追い詰める必要は全く無い。事実自分は何も分からないのだから、今はまず水野さんに従っていれば良いのだ。
「んじゃ、そろそろ授業にしましょっか。えっと、昨日の宿題は」
 立場に窮していない事で気持ちに余裕が出来、普段軽口を叩くような調子でテキストを広げる。
 その時だった。
 不意に水野さんが身を寄せ体を密着させて来た。突然の事に体をびくりと跳ねさせる。だが驚きの声を上げるよりも先に、水野さんの手が開こうとした口を塞ぐ。何がどうしてこんな状況になっているのか全く理解出来ない。そんな目を白黒させている俺に、水野さんは更に顔を寄せそっと耳元へ囁きかけてきた。
「当主に必要なのは実務能力だけではありません。何より人に好かれるような人柄でなければ。私も将来御仕えするなら、好意を持てる方に仕えたく思います」
 水野さんは俺の口を塞いだままそっと体を離す。もう片方の手が俺の肩に触れ、水野さんと正面から向かい合わせる。水野さんは未だ困惑している俺の口を塞いだまま、無言でにっこり微笑んだ。多分俺に黙ったまま聞いて欲しかったのだろう。そう解釈し小さく頷き返す。了承した水野さんは俺の口を塞いでいた手を離した。
「それでは授業に入ります。まずは昨日の課題から確認いたしましょう」
 次の瞬間には水野さんは普段通りの事務的な無表情に戻っていた。慌てて俺も気を取り直し頭を授業へと切り替える。しかし、まだ耳に残る囁き声と微熱が困惑したままの思考を留めて、視線がテキストへなかなか向いてくれようとしない。
 水野さんの表情らしい表情を見たのは初めてだった。いや、それよりも今の行為は一体何の意味があったのか。あれだけの事を言うのに果たして必要な事だったのか。
 多くは語らない水野さんであるため、邪念が想像力で見る見る大きく膨れ上がっていく。それが何度も俺の思考を妨げ、結局その日の授業は最後まで集中が出来なかった。