戻る

 成美は大事を取って、今夜はもうロッジで休ませる事にした。意識が朦朧としている訳ではなく単に気分が悪いだけだが、あの喧噪には加わる事も出来ないだろうし、何より酒気が辛いはずだ。お茶を小まめに飲んでトイレに行っていた方が体に良い。
 すっかり気分が覚めてしまい、広場へ戻ってからも相変わらず少し離れたベンチに座り遠目から皆のはしゃぎぶりを眺めていた。良く飽きもせずに騒げるものだと半ば呆れていたが、自分も今までは遊ぶ時など同じようになっていた事を思い出す。
 今、そこまで我を忘れてはしゃげないのは、もしかすると酒のせいだけではないのかもしれないと、不意に思った。
 自分はまだ皆には溶け込めていない、どこか馴染めず一線を引いたままの部分があるのではないか。
 しかし、自分の性格は自分が良く理解している。そんな繊細な構造はしていない。単に、なまじ理性があるから羽目を外しきれないか、もしくは単に昼間歩き過ぎて疲れているだけだろう。
 この島では、人間関係にも体力がもっと必要らしい。そのため自分も少し何か運動をしてみようか。そう思った。
「成美ちゃん、どうだった?」
 不意に横から声をかけられ、はっと我に帰り振り向く。そこにはいつの間にか悠里が立っていた。柄にも無く物思いに耽りすぎて、近くに来ていることに気づかなかったようだ。
「今夜はもうダウンです。まあ、お茶も置いてきたし、それ飲んでればいずれ良くなりますよ」
「そう。良かった」
 当事者が何をのんきな事を。そう苦笑いしていると、悠里が俺のすぐ隣に腰を下ろした。
「はい、これ。持って」
 そう言って悠里が突き出して来たのは、透明プラスチックのコップ。中には氷とやや濁った薄黄色の液体、そこから柑橘系の香気が漂ってくる。成美からも似た匂いがした。おそらく成美が飲まされたのと同じものだろう。
「まだ飲んでるんですか。悠里さんて結構ザルなんですね」
「そんなこと無いわよ」
 その時だった。突然悠里が俺の首に両腕を絡めてくると、そこから引き寄せるように力をかけて自分を持ち上げ、俺の腿の上に腰掛けてきた。解こうにも手には並々と注がれたコップがあり、何より悠里は絡めた腕を離そうとしない。不意打ちとはいえ、予め考えていたとしか思えない流れである。
「何です、これ?」
「さっき成美ちゃんにしてたじゃない」
「歩けないから運んであげるためでしょうに」
 また先程のような、何の思慮も無い無邪気な語り口調。幼稚にも聞こえるそれに、これは酔った勢いで絡まれているだけだと俺は思った。
「成美ちゃんばかりずるいわ。私も抱っこ」
「悠里さんが飲み潰れたら、喜んで介抱してあげますよ」
「喜んで? あー、やらしいんだ」
「誤解ですよ。俺は前から真面目な人柄で通ってたんですから」
「本当に? 何か遊び慣れてる雰囲気あるけどなあ」
 悠里は俺の首に回した腕を支点に、上半身を仰け反らせたり回したりしながらはしゃぎ笑う。楽しんでくれるのは結構だが、そこまで首を酷使されると正直辛い。右手は悠里の背中側に回してうっかり転落しないよう支え、左手にはコップ、腿の上に座られてはどうにも身動きが取れない。成美もこうやって絡まれていたのだろうか。そう思った。
「そうだ、裕樹君ってまだ飲んでないでしょ? それ、飲んでいいよ」
 そんな誘いを出す悠里。無論俺は躊躇した。成美からは飲んでも良いとは一言も言われていないからだ。
「緒方家として駄目だって、成美ちゃんが言ってたじゃないですか。せっかくですけど、悠里さんが飲んで下さい」
「成美ちゃんなら見てないわよ。私も黙っててあげるから」
「でも、そういう約束ですから」
「やだ。じゃあ、飲まないとここからどかない」
「駄々こねないで下さいよ」
「やだ。いいもん、私はこのままでも」
 そう言って今度は腕に力を入れ引っ付いてきた。
 これはもうどうしようもない展開である。酔っ払いを説き伏せるのは、俺の語彙では不可能である。ここは言う事を聞いた方が良いのかも知れない。このまま酔った勢いで、またおかしな事をされないとも限らないからだ。
「少しくらい、いいじゃない。羽目外しても。裕樹君、最近無理してるみたいよ?」
「そうですか? まあ、俺も色々あって白壁島に来た訳ですから」
 苦笑いし、コップを一口傾ける。久しぶりの微かな苦味に口の中で舌を丸める。けれど悪い気分では無かった。味や風味云々より、悪い事をして羽目を外し気持ちを楽にしているという実感が大事なのだ。思い込みでも、精神衛生には効果は変わらない。
「おいしい?」
「まあまあです」
 そう、と答え微笑む悠里。それは普段の、あまり声に出さず思わせぶりで意味深な笑みそのものだった。
 急にどうしたのだろう、酔っていたのではなかっただろうか?
 たまたま角度の問題でそう見えたのだろうか。ともかく、俺はさほど気にせず更にコップを傾けた。成美には申し訳ないが、たかだか一杯でどうにかなる訳でもない。翌朝にはお互い抜けているだろうから、何事も無く収まるだろう。
 成美への思いとは裏腹に、順調に美味しく頂いていく。コップの中身が半分ほどになると、軽い高揚感が出て来た。理由がなくとも何となく楽しい気分になってくる時間である。悠里が間近にいるというこの距離感もさほど気にならなくなってきた。
 しかし、
「おい、悠里。こんなところで遊んでいたのか」
 またしても唐突にやって来たその声に、ぼやけかけた思考が急激に引き締まる。それは、予告も無しに話し掛けられたからではなく、その声の主が自分にとっては天敵である菊本だったからだ。
「見上、ここはキャバレーじゃないんだぞ。悠里に阿呆な真似をさせるな」
「悠里さんがやってるんですよ。って、キャバレーって、また」
 案の定、すぐさま菊本は俺に向かって吐き捨ててきた。口調といい額に集まった皺の数といい、明らかに不機嫌な様子である。面倒な事になりそうだ。そう思った。
「大体にして、お前緒方家の癖にそんなもの飲んでいいと思ってるのか?」
 すると、すかさず悠里が口を挟んだ。
「これは私のよ。裕樹君に持って貰ってるだけだもの」
「本当か?」
「部代表の私が、そんなことさせる訳ないでしょ。ホント、どうでもいいことをすぐ疑うのね」
「ふん、お前はいつも見上を庇ってるがな、俺にだって確かめる権利ぐらいあるんだぞ」
「だったら何よ」
 そういきり立って菊本は、俺の前ににじり寄り顔を近づけて来た。
「見上、息吐いてみろ。匂いがしたら、お前は飲んだことになるんだからな」
「はあ」
 突然の事で背筋が緊張する。菊本は冗談でやっているようではない。下手な対応をすれば、菊本にわざわざ付け込みやすい隙を与えてしまう事になりかねない。緊張が喉元まではい上がり、息を飲む。
 まさか、本当に学校や緒方家に密告するつもりでいるのだろうか?
 ただの注意かもしれないと最初は思った。しかし、日頃菊本は俺を目の敵のように見ており、そもそも注意だけならこんなことをする必要は無い。飲んでいるにしろいないにしろ、一言言えば済む事なのだから。
 素直に応じるべきか否か、悩む。
 すると、その時だった。
「裕樹君、ちょっとこっち向いて」
 悠里が俺の顔を持って自分の方を向かせる。直後、いきなり悠里が無理やり唇を重ねて来た。
「な、おいっ、何を!?」
 菊本の明らかに動揺した声が響く。しかし悠里はそんな事も構わず、首をしっかり掴んだまま離そうとしない。それもただ掴んで重ねるだけでなく、舌までねじ込んで来る様な激しいものだった。何故こんな状況になったのか、酔いのせいもあって俺は認識が随分と追いつけなかった。
 しばらくして息継ぎをするかのようにようやく解放される。悠里は俺に向かってにっこり微笑むと、また首に腕を回して体を密着させ、傍らの菊本を横目に見た。
「私達、ずっとこういうことしてたの。だから、裕樹君の息なんか調べたって無駄よ? 私、随分飲んじゃってるもの」
 悠里が平然とした表情でそんな事を菊本へ宣言する。どう考えてもそれは、挑発以外の何物でもなかった。俺は詰め寄る菊本よりも、その態度に血の気が引く思いだった。
 菊本は呆気に取られた表情のまま動きが固まっていた。まるで信じられないものを見るような目つきである。
 そして、
「……もういい、勝手にしてろ!」
 やっとの事でそれだけを吐き捨て、足早に立ち去っていった。悠里は陽気な表情でその後ろ姿に手を振る。酔いの勢いなのか本気でやっているのかは分からない。けれど、どの道今後の何かしら火種を作ってしまった事だけは確かだと感じた。
「悠里さん、今のはまずいですよ」
「んー、何が? ちょっと大胆過ぎた?」
「そうじゃなくて。菊本先輩って多分」
 だが、続きの言葉は言えなかった。それは菊本を余計に傷つけるような事になると思ったからだ。
 口ごもる俺に悠里はいつもの笑みを浮かべ、頬を摘んだり突いたりしてじゃれついてくる。本当に何も感じていないのだろうか。俺はどう対応して良いのか分からなかった。
「そんな事より、楽しくやりましょ。ほら、もっと飲んで。それとも、お姉さんに口移しして欲しいのかな?」
「自分で飲めますって」
 そう、と答え無邪気に笑う悠里。釣られて俺も笑みを浮かべたものの、とても腹の底から笑う気持ちにはなれなかった。
 悠里は優しくて面倒見も良い上に人望もあり、おおよそ想像できる中で最も理想的な先輩だと思っている。だが今の行為は、それとは大きく掛け離れたあまりに酷いものだ。何故そこまで菊本に冷たく当たるのか自分の理解の範疇を超えている。少なくとも自分は、意図的に相手を傷付けるような事は出来ない。だから理解のしようがない。
 久しぶりに、胸にかかる蓬莱様を意識した。
 今夜の行動は全く当主として褒められたものではないと思った。成美に黙って飲んだ事はともかく、菊本に対して何もフォローをしなかったのは、分かっていて見過ごしたからだ。少なくともそれは、自分なりの美意識や道徳観念にもとる事だ。
 何もしなかった事を、蓬莱様に叱られている気がする。そう俺は思った。