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 いきなり背中を小突かれたように、唐突に目が覚めた。
 俺が寝ていたのは、ロッジのリビングにあるソファーの上。電気は点けたままで、テーブルの上には飲みかけのコップや菓子の残りが散乱していた。周囲には、俺と同様にソファーや椅子で何人かが眠っている。自分もそうだが、みんな途中で疲れ果てて眠ってしまったのだろう。見当たらない者もいるが、それはきっと自分の足で部屋まで行きベッドで寝ているに違いない。
 傍らには寄りかかるようにして悠里が眠っている。寝る前の記憶を手繰ってみると、悠里は終始こうやって自分の近くにいた。そのまま眠ってしまったのだろうが、こう無防備な姿を曝されるのは非常に複雑な気分である。周囲の目があるから何もされないだろうと高をくくられているのか、その逆か。どちらにしても、精神衛生上よろしく無い。
 悠里を起こさぬようそっと除け、テーブルの上にあったジュースの残りを飲む。すると額の奥がじわりと痛んだ。結局流れに任せて飲んでしまったのだが、量が少々過ぎたらしい。成美の言い付けも守れなかった事もあり、今夜の出来事は成美にはとても話すことが出来ない。
 言い訳は今夜中に考えるとして、ひとまず落ち着こうとトイレに行って用を足す。それから空腹ではないものの、残った菓子を何口か食べてみたが、頭痛と胃のもたれが相俟っていまひとつうまくない。このまま寝直そうとも思ったものの、ソファーで寝たせいか若干体の節々に痛みがあり、何より悠里の隣というのも気が引ける。
 ちょっと外に出てみるか。そう思い立ち、ロッジの出入り口へと足を伸ばした。
「ん?」
 開けようとしたドアの窓越しに人影を見つける。その主もこちらに気付き振り返った。
「あ、裕樹様」
 そこにいたのは浩介だった。肩からアイスボックスを下げ、手には釣竿と電池式のランタンを抱えている。これから出掛けるのだろうか。俺はそのまま外へ出た。
「今から釣りでもするの?」
「はい。実はここの近くに良く釣れる川があるので」
 浩介に釣りの趣味があるとは知らなかった。しかし、普段の生活からしてあまり都会的な派手さは感じられなかったから、趣味としては妥当な線だろう。
「俺も一緒に行ってもいい? 見るだけだけど。頭痛くてさ、少し散歩したいから」
「ええ、どうぞ」
 浩介に連れられ、早速夜の釣りへと出掛ける。
 キャンプ場は周囲が森に囲まれているため視界が狭く、付近に何があるのかはあまり良く分かっていなかった。浩介が向かう先は、キャンプ場を出て道路を数分ほど歩いた脇にある丘陵だった。そこから下ってすぐの所に目的の川が流れているらしい。バスに乗っている時も橋を一度渡っているそうだが、車内で騒いでいたせいで見逃していたようだ。
「川釣りって意外と穴場なんです。島だと四方が海ですから、みんなは大体釣りって言うと海です。でも、結構釣れる川が白壁島にはあるんですよ」
「何が釣れるの?」
「チヌとかスズキの小さい奴です。たまにウナギも釣れますよ」
「ウナギ! ウナギって川で釣るんだ。初めて知った。鯛とか高いやつは無い?」
「あれは海水魚ですから。川は淡水魚です。海魚と川魚は全く別ですから」
「川には川の魚がいるってことか」
 正直な所、釣りそのものにはさほど興味は無かった。ただ今まで魚とは釣堀か船の上か防波堤で釣るものだと思っていて、川で、それも夜に釣るというシチュエーションが物珍しかったにしか過ぎない。釣りなんて中年の趣味だという認識もある。それが、自分よりも年下の人間が夢中になっているのは、ある意味興味はそそられるかもしれない。
「夜釣りってよくやってるんだ?」
「いえ、年に何度も出来ませんよ。なんせ、夜の川は危ないという事で本当は子供は行っちゃ駄目って言われてるんです。ですから、今夜の事はどうか内緒にしておいて下さい」
「いいよ、分かった。その代わりさ、俺の事も内緒にしといてよ。ほら、今夜の」
「お酒の事ですか? 分かりました。よそ様には御報告いたしません」
「それと、成美ちゃんにもね」
 丘陵を下った先には、腰ほどの高さまで伸びる雑草が生い茂っていた。浩介の照らす明かりを頼りに足元に気をつけながら進んでいくと、やがて水がうねる独特の音が聞こえてきた。真夜中であるため空気は冷たいものの、鼻孔には更に冷たく澄んだ空気が感じられた。雨上がりの泥臭い匂いも僅かに漂う。川が近いようだが、幾ら見回してもそれらしいものは見当たらなかった。確かに土地勘が無いものだと、幾らライトを持っていてもうっかり川に落ちてしまうかもしれない。夜の川が危険だというのも頷ける話だ。
 しばらく雑草を掻き分けて進んで行くと、拓けた石の河原に辿り着いた。石が大粒のためあまり足場は良くないものの、比較的見通しも良いため釣りをするには具合が良さそうだと素人ながらに思った。
「この辺りが淵になります。苔で結構滑り易いんで、あんまり近付かないで下さい」
「了解。俺はここらに離れてるよ」
 さほど夜目が利く訳でもなし、浩介の言う川淵はランタンぐらいでは分からないため、俺は少し遠めに離れた所で手頃な石を探して腰掛けた。
 浩介は早速荷物を開けて準備を始める。針やら糸は予め準備をしていたのか、あっという間に餌をつけ川に向かって竿を振った。あんな手元の暗い所で良く細かい事が出来るものだと俺は思った。目をつぶっていても出来るぐらい手慣れているのだろう。同じ事を自分がやれば、間違い無く針を指に刺してしまうはずだ。
「普段は海で釣りしてるんだ?」
「ええ、時々。仕事が休みの時は良く行きます」
「やってる人っておっさんばっかりじゃないの?」
「そうでもないですよ。若い人も少なくないですし。そうそう、森下さんもよくやってますよ」
「町には出なくとも、海には出るのか。ホント、あのじいさん変わってるね。何やってた人なの?」
「何でも、建設関係の仕事だったとか。あのキャンプ場の建物はほとんど自作らしいです」
「まさか、あれって趣味でやってるのかな? 普通じゃないけど、結構凄いな」
 どこか俗世離れしている雰囲気はあったものの、案外侮り難い人物のようである。何か話を振れば面白いエピソードやらが飛び出すかもしれない。そう思った。
 そんな調子で俺は浩介と静かに談笑し、浩介は糸を川に垂らしては時折竿を引っ込めたり振ったりを繰り返している。しかし、一向に釣れそうな気配は無かった。随分続けているようだが、まだ一回もそれらしいことは起きていない。
「そういえばそっちは当たりある? どう?」
「いえ、まだ」
 そう答える浩介は、さほど残念そうでもなければ苛立っている様子も感じられなかった。実に淡々と穏やかに竿を握り続けている。
「いつもはどれぐらい釣れるもんなの?」
「去年ですと、かかって三匹ですね。全部ほとんど食べるところも無いようなチヌでした」
「一晩やったにしては随分な結果だね」
「夜釣りはそういうものですから。稀に昼間釣れないような珍しいものがかかれば、それで満足なんです」
 一種のコレクターのような心理なんだろうか?
 何でも物事は即決即断、それもその場の直感で決めるようなせっかちの自分には全く理解出来ない世界である。けれど、自分よりも年下でありながら、自分より気が長く落ち着いているのは、やはり釣りのおかげなのだろうかと俺は思った。ある種の精神修養なのかもしれない。
 当主たるもの、如何なる時もこういう冷静さは不可欠だろう。自分も釣りを始めて寛大な心を取得した方がいいかと思いついたものの、そんな最短距離を真っ直ぐ進むような手段そのものが既にせっかちの典型であり、結局は何も身には付かないだろう、そう考え直した。