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「裕樹様、起きて下さい。裕樹様」
 そう揺すり動かされ、俺はハッと目を覚ました。
 周囲はや夜明け前といった薄暗さで、風が心なしか随分冷たくなっている。俺は平面の広い座り心地の良い石の上に座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていた。それを見かねて浩介が起こしてくれたようである。
「あれ、いつ寝ちゃったんだろ」
「こんな所で寝たら風邪を引いてしまいますよ。そろそろ戻りましょう。きっとお疲れのはずです」
 浩介は既に帰り支度を済ませていたらしく、袋に入った竿とクーラーボックスを背負った。言われてみれば、飲み過ぎによる頭痛は消えた分全身に気だるい感覚が圧し掛かってきている。時間も時間のため空腹もあったが、それ以上に眠気が強い。そのせいで俺は眠気に負けてしまったようだ。
 立ち上がり、長時間維持した妙な体勢のせいで凝り固まった部分をほぐすと、浩介と共にキャンプ場の方へと引き返した。
「あー、そうだね。戻って少し寝よう。朝ご飯って何時から?」
「さあ、自分は分からないです。きっとみんな、起きたなりの時間に用意すると思いますんで」
「みんな散々飲んだことだし、案外遅いかもね。ところで、俺寝てる間に何か釣れた?」
「いえ、駄目でした。何度か当たりはあったんですけど。まあ今回はしょうがないです。釣りは巡り合わせですから」
 確かに、だだっ広い魚のホームに見落としても不思議の無いような小さな針を垂らして、そこにかかるかどうかが釣りなのだ。普通に考えて、そんな砂漠で縫い針を探して見つけ出すような事が早々あるはずがないのである。人間の出会い云々に例えるのは的を射た表現だと思う。巡り合わせ、もしくはギャンブルのような運任せだ。
 キャンプ場のロッジに戻ると、相変わらずリビングには雑魚寝する数名の姿があった。良く見れば、森下老人までもが床に転がって寝ている。本当にこの人は良い年をして何をやっているのだろうか、そんな苦笑いが思わず込み上げて来た。
「自分後片付けとかしますんで、どうぞお休み下さい」
「おう、そうさせて貰うよ。んじゃ、おやすみ」
 自分が寝ていたソファーには悠里がタオルケットに包まって眠っている。そこに並んで寝るのは気恥ずかしい感じがあったものの、今はそんな事よりも眠気の方が強く、俺は悠里を少しだけ動かし座りながら寝る体勢を取った。モラルよりも原始的な欲求の方が強いものだ。
 ソファーにもたれ腕を軽く組む姿勢を取る。目をつぶるとあっさり眠りに落ちてしまった。いつの間にか夢うつつの世界ににいた。そんな感覚である。
 何度か夢とを行ったり来たりを繰り返しうとうとしていると、やがて周囲から人の動き回る気配と話し声が聞こえ始めた。どれくらい経ったかは分からないが、それほど経ってはいないだろう。数人だが、もう起きて来たらしい。多分部屋に戻ってちゃんと寝た、夜更かし組以外だと思った。
 俺は意識は半覚醒のままで、そこから先は強烈な睡魔の抵抗に遭い、それ以上目覚める事はなかった。まだ全員が起きている訳ではないのだから、もう少し寝ていよう。そういう誘惑に負けたのだ。睡魔とはそれほど抗い難い。
 更にしばらくの間、俺は眠ったり半分目を覚ましたりを繰り返していた。傍らの悠里もその内に起き出し、タオルケットを静かに俺にかけて外へと出て行ってしまう。その後も随分人の出入りが続いた。半分眠っているまま全部を正確に数えている訳ではないが、もしかするとほとんど起きて行ったように思える。
 皆が広場の方へ集まっているような気配があった。朝食の準備だろう。そういう時間帯に差し掛かったようだし、作業があるなら起きて手伝うべきなのだろうが、やはり未だ睡魔が強かった。俺はどうしても起きる事が出来なかった。半分目覚めたまま体が動かせないのは、金縛りと同じ理屈だったはず。そんな事を思い出す。
 それから間も無くの事だった。
 不意に誰かの短い悲鳴が聞こえて来た。多分女子のものだと思う。何か引っ繰り返しでもしたのだろうか。昨夜も火加減が強過ぎて肉に火が着いてしまった時も、そういう騒ぎが起こった。そんな事を思い出す。だが、
「だから、何だってんだ! いい加減にしろ!」
 突然響き渡る、何者かの怒鳴り声。驚きのあまり、俺は完全に目を覚ましてソファーから飛び起きる。
 一体何が起こっているのだろうか。これまで和気藹々と楽しくやっていた雰囲気からは到底想像つかない不穏な怒鳴り声に居ても立っても居られなくなり、すぐさまロッジを飛び出し皆の集まる広場へ駆けた。
 一同は広場の炊事場に集まっていた。騒ぎもそこから聞こえている。言い争っているのは、菊本と一人の男子生徒。そして生徒の後ろの方では何やら一人の女子生徒が数人に囲まれている。介抱か何かされているらしい? 着いて早々ざっと見渡した限りで分かったのはそれぐらいだった。
「悠里さん、おはようございます。これどうしたんですか?」
「おはよう、裕樹君。いつもの事よ。菊本がまたやらかしたの」
「やらかしたって何を?」
「熱い鍋の蓋を当てて焼けどさせちゃったんだけど、自分が悪いって認めないのよ」
 声を潜めて訊ねる俺に対し、悠里は聞こえるのも構わずいつもの調子でそう答え、コンロから外されたばかりらしい湯気が未だもくもくと立っている鍋を示す。
 その言葉に菊本がすかさずじろりと悠里を睨みつける。
「おい、勝手な事を言うな。俺は火の傍は危ないから近くに来るなと何遍も言ったはずだ。にも関わらず近づいて来たから、こういう事になっただけだ。なんで俺が謝らなきゃいけないんだ」
「自分のルールなんか誰も知らないでしょ、まったく」
 呆れた表情で溜息をつく悠里。菊本もその態度を流せるはずもなく、苛立ちもあらわに露骨な舌打ちを返した。
 だが、当事者に近しいらしい者は悠里ほど余裕のある態度を取る事が出来なかった。
「いいから謝れって言ってるんですよ! あんたが悪いんでしょうが!」
 そう菊本に向かって怒鳴ったのは、浩介の同級生で昨日森の中の探検に一緒に行った一人だった。会話が途切れた事すらも腹立たしいらしく、微妙に距離は取りつつも目上の菊本相手に向かって感情の赴くまま遠慮の無い言葉を浴びせる。
「悪いのは不用意に近づいたそっちだろうが!」
「だからって、あの態度は無いでしょう! 怪我した人に馬鹿かお前はって、頭おかしいんじゃないんですか!?」
 今にも取っ組み合いが始まってもおかしくはない雰囲気である。このまま放っておけば本当に殴り合いに発展しかねない。
 とにかく、暴力沙汰は絶対に駄目だ。自らの言い分はさておき火傷させたのは事実だから、ここは菊本に嘘でも謝っておいた方が円く済むはず。部代表のはずの悠里もまるで静観の姿勢のため、取り成しは期待出来ない。ここは自分が何とかしなければとばかりに、俺はそこで二人の間に割って入る。
「とにかく、お互い落ち着いて。まずは話し合おうじゃないか」
 我ながらなんと間の抜けたセリフだろうか。そう思いつつも、実際そうでもしなければお互い踏み止まってすらくれない。ばつの悪さと双方の睨み合う真っ只中に立っている緊張感とで、顔には歪な笑みが浮かぶ。
「何だ見上、部外者は引っ込んでろ」
「見上先輩、これはうちらの問題ですから。すみませんが放っておいて下さい」
 示し合わせたかのように、双方とも全く同じ意味の言葉を返してくる。要するに仲裁が邪魔だという事で、これで構図が二対一となりはするものの、そこでもまだ俺は引かない。
「いや、そうも言ってられないでしょ。さすがにケンカはまずいんじゃないんですか? ここは冷静にならないと」
「冷静ですよ。でもね、いつまでも冷静でもいられないですよ。あんな無茶苦茶な事を言う奴に、なんで冷静にならなきゃならないんですか」
「お前は本土人だから知らないだろうがな、白壁島ではな目上の人間の言うことが正しいと昔から決まってるんだ」
「だからって、幾ら何でも限度ってものがあるでしょうが!」
「うるさい! 黙ってろ、中等部が!」
 かえって俺の日和見な主張は二人を余計興奮させてしまう。何故か先に掴みかかろうとした菊本を反射的に押さえ、両者の距離を更に広く取らせる。
「とにかくですね、えっと、そうだ。菊本先輩、ちょっと向こう来て貰えます?」
「何でだ。お前の言う事を聞く筋合いは無い」
「まあまあ、そこを何とかね。ほら、ここは一つ」
 適当な言葉を並べ立て、ひとまず菊本をこの場から無理やり引き離す。菊本は抵抗するものの、部外者と平然と吐き捨てるだけあって部外者そのものには手を出し辛いらしく、無理やり引っ張る俺にさほどの抵抗もしなかった。少なくとも話ぐらいは聞こうという冷静さはあるらしい。咄嗟の事だったとは言っても、引き離した方が年長の菊本だったのは幸いである。そのままロッジの前まで菊本を引っ張っていった。
「菊本先輩、やっぱ嘘でもいいから謝った方がいいですよ。みんな治まらないですよ、あんな態度じゃ」
「治まろうとどうだろうと俺には関係ない」
 菊本の態度は、やはり固持している。自分が目上だからこそ謝る必要は無い。白壁島のそんな伝統芸なのかどうか分からないが、それを徹底する構えのようである。
「でもね、中等部なんてホラ血気盛んな時期でしょ? 納得させられないと、ずっとあれ続きますよ。さすがに体裁悪いでしょ」
「だったら黙らせればいいんだろ。俺は黒帯なんだぞ」
「いやいやいや、そうじゃなくてね。こういう時は、むしろ先輩として度量の広さをね」
「関係あるか。先輩が正しいんだ。目上の意見がこの島では全てなんだ」
 頑なに拒否する菊本。やはり自分に非があるかどうかではなく、謝る必要そのものが無いという認識が最大の障害になっているようである。
 菊本を籠絡するのは不可能だろうか
 そう諦めかけたものの、ふと俺は今の言い回しにある事を思いついた。
「目上が正しいって事は、じゃあ、悠里さんに頼まれたら謝ってくれるんですか? 確か菊本先輩は副代表でしたよね。悠里さんの下」
 険しい表情だった菊本が、ぎくりと顔を震わせる。自分よりも目上に当たる人間などこの場にいないと思っていた、そんな意表を突かれたような表情である。
「……あいつがやる訳ないだろ」
 それだけを振り絞るように答え菊本はそっぽを向く。
 これはどうやら効果があると見て間違いない。一筋の光明が見えた。そう俺は思った。