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 菊本は一旦ロッジの前で待たせておき、俺は早速悠里の元へ向かった。彼女ならば菊本の頑なな態度を軟化させられるかもしれない。そう思ったからだ。
 二人で離れ俺だけが戻ってきたこの状況と、俺が何を考えているのか表情に出てしまっていたのだろう、悠里は心なしか訝しい視線を俺に向けている。周囲もまた、疑るようとまでは言わないにしても、どこか腫れ物を触るような様子でこちらを眺めている。
「あの、悠里さん。実はですね、一つお願いがあるんですけど」
 まるで胡麻を摺るような卑屈な笑顔に歪みはしたけれど、まずはきっかけとばかりに話を切り出す。けれど悠里は、その出鼻をくじくようにいきなり口を尖らせそっぽを向いた。
「嫌よ」
「え?」
「菊本に謝って貰うようお願いしろって言うんでしょ? 絶対、嫌。幾ら裕樹君の頼みでも、それは聞けないわ」
 予想外の先制攻撃、出だしから明確な返答をされて俺はその場にたじろいでしまった。悠里の協力が得られなければ、その時点で目論みが頓挫してしまうからだ。
「なんでまたそんな」
「あいつに借りを作るなんて、絶対に許せないもの」
「それぐらい、俺が肩代わりしますよ」
「嫌なものは嫌。第一、それじゃ借りが出来たことそのものには変わりないじゃない」
 悠里は菊本と同様に頑なに拒絶する。自分には借りの一つにそこまでこだわるのか、どうしても理解する事が出来なかった。単純に嫌いな相手に弱みを見せたくないという事でもあるのだろうが、個人的に悠里はそういう恨みつらみとは無縁な飄々とした人柄だと思っていただけに、すっかり困窮してしまった。悠里と菊本の不可解な溝を、俺はあまりに軽視していたのかもしれない。だが他には何も代案は無く、その甘い見積もりをそのまま押し通す事は出来ないものか、それだけしか選択肢はなかった。他に落としどころは、俺には思い付かないのだ。
「放っておきなさいな。自業自得よ。勝手にすればいいんだわ」
 そう悠里はいつもの笑みを浮かべ、俺の手を引く。このまま菊本は放置してしまおうという事なのだろう。
 けれど、それは出来ない。何となく、そう思った。だから、悠里に手を引かれても足を進める言葉出来なかった。
「悠里さん、どうしても駄目ですか?」
 同じ質問を繰り返したため、悠里が小さく溜め息を漏らす。こちらも簡単には引いてくれない。そう思ったようだった。
「裕樹君、どうしたの? 菊本のこと、嫌いだと思ってたけど」
「そりゃそうですけど。でも、それとこれは別だと思います。嫌いだからって存在そのものを全否定したい訳じゃないし、今大事なのは今後に遺恨を残さない事だと思います」
 悠里は呆れた顔で再び溜め息をつく。
「もしかして、部代表に当てつけのつもりで言ってるのかしら?」
「えっ? いや、俺はそういうつもりじゃ。……そんな風に聞こえたならすみません」
「ちなみに、菊本の言ってたあれ。一応この島では普通の事なのよ。目上の言う事は絶対。この島で緒方家の存在がどういうものか分かるなら、その事も分かるでしょう?」
「まあ、はい。俺は目下になる訳で、悠里さんの言う事には従うべきなんでしょうけど」
「それでも、もっとクラスの和を大事にしてと、私に言う訳?」
「はい。出来ればそうして頂けると嬉しいかなあ、なんて」
 困った後輩だ。きっとそんな事を思っていただろう悠里は、俺の顔を見て三度目の溜め息をついた。従うべき相手と認識していながら意見を述べて来る、それもそれなりに正論である意見には違いないのだから、周囲の手前も考えれば無下には出来ないはず。その目論みで言っているのだから、悠里にしてみれば随分質の悪い後輩に思われても仕方ないだろう。
 今度こそ悠里は折れてくれるだろうか。そうしていると、やがて悠里は何かを諦めたような笑みを浮かべた。
「いいわ、分かった。裕樹君の言う事も一理あると思うから。でも、今回は特別よ?」
「ありがとうございます。やっぱ悠里さんは話が分かる」
「その代わり、裕樹君にも何かお願い聞いてもらうからね」
 そう言って、思わせぶりな笑みを浮かべる。つまり、これは借りを一つ作ってしまったという事だ。この笑みは、その認識の確認という事である。けれど俺は、悠里の事だから大した事にはならないだろうと思っていた。相手が悠里だからこそ、安易に白紙の手形を切ったことをあまり深刻には考えなかったのだ。