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 連休が明け、再び学校生活が始まる。取り巻く環境は相変わらずで、一週間以上先の見通しを立てられるほど生活にも余裕が出て来た。それは本当に白壁島に慣れたという事ではあるのだが、同時に自分への停滞感も感じられるようになった。それでも肌身離さず持っている蓬莱様の存在が、自分が緒方家の当主になるのだという使命を決して忘れさせない。そのギャップのせいで、いつも僅かに焦燥感を抱かずにはいられなかった。
 そんな五月の半ば頃、教師の口から中間試験という言葉が飛び出した。来月の頭にはテスト週間に入るため、各人一層勉強に励めという。また、例によって部活動も休止となり、生徒は放課後はすぐに帰宅する事が奨励される。こういった定期試験は白壁島でも同じく憂鬱にさせるものらしい。試験対策への不安、行動を制限される不満、そんな気持ちが手に取るように分かるのは自分もまた同じ気持ちでいるからだろう。
 白壁島でもこういった定期試験は年に四度行われる。中間と期末とが交互に二回ずつ。白壁島では一日に二教科ほどを五日間かけて行うそうだ。その分試験対策がしやすいかと思えばそういう訳でもなく、単純に一教科あたりの量が多いそうだ。白壁島での転校後初試験となる俺にとっては、周囲以上に不安感が強い。これまで試験というものは追試にならない程度にやっていただけだったが、今後からはそうも言ってはいられなくなる。まさか緒方家の当主があまり出来が良くないなどと噂を立てられれば、恥ずかしい思いをするのは自分だけではないのだ。
「裕樹君、今日はすぐ帰るの?」
 その放課後、下校の準備をしていると悠里が話し掛けて来た。時折見せる、甘えるような演技がかった猫撫で声。これは何かの誘いかお願いか、そう俺は思った。
「一応そのつもりですけど」
「それなら、ちょっと付き合わない?」
「おや、先輩。デートですか?」
「残念、本屋に行くだけよ。試験対策の参考書を買いに。そっちは試験の後にしましょ」
「参考書ですか。俺、そういうの買ったことないから、どこの何がいいのか分からないんですよね。ついでに俺のも見繕って下さい」
「いいわよ。私のお勧めを教えてあげる。じゃあ、行きましょう」
「その前に、ちょっと待って下さい。トイレ。昇降口で待ってて下さい」
 俺は足早に教室を出て廊下の突き当たりにあるトイレへと急ぐ。人を待たせることに心苦しさを感じる性分である。足取りは自然と早まる。校内を公然と走る事はあまり褒められた事ではないが。
 今日はこの後参考書を購入したら真っ直ぐ帰宅、それから水野さんの授業まで試験勉強に取り組むとしよう。まだ試験の詳しい日程も出てはいないが、勉強をし過ぎるという事は無い。ついでに、去年はどういった試験だったのかを悠里に聞いておく事にしよう。ともかく、出来る限りの対策を講じる。そうすれば、試験当日まで落ち着いて勉強が出来るはずだ。
「あれ?」
 用を済ませトイレを出ると、目の前には成美が立っていた。姿が見えないから何か用事で急ぎ帰ったのかと思っていたのだが、まだ校舎にいたらしい。
「どうしたの、成美ちゃん。トイレの前で待ち伏せとか、ちょっとどうかと思いますよ」
「あ……はい。その、すみません……」
 成美は俯き加減でそわそわしている。これは何かを言いたい時の素振りだ。しかし、妙なタイミングだと俺は思った。話ならば今日も朝から顔を合わせていたのだからいつでも出来たはず。このタイミングでこの素振りを見ると、俺だけにしか話せないような事なのだろうか?
「どうかした? それより、早く帰ろうよ。悠里さんも下で待ってるし」
「……はい、分かりました」
 答え頷く成美だったが、もじもじと寄り合わせた手は解かず未だにいる。やはりどうしても言いたい事があるらしい。しかし、なかなか言い出さないのは何故だろうか。言い難いから一人の時を狙ったのだろうが、それでも尚言い難いとは。あまり喋る性格では無いにしても、どこか引っかかる様子だ。
 ともかく、あまり悠里を待たせるのも良くない。誰にも聞かれたくない話であれば、今夜自室でも出来る。この場は悠里を優先した方が良さそうだ。そう判断し、成美に行こうと促しかけたその時だった。
「あの、見上さん。悠里さんには気をつけて下さい」
「はい?」
「出来れば、近付かない方が良いんですけど……」
 意を決した成美が口にしたのは意外な言葉だった。あまりに予想外で、しかも突拍子も無いことである。俺は思わず疑念も露に問い返してしまった。
「どうしたの、急にそんなこと言い出して」
「悠里さんの態度、少しおかしいんです。多分、何かあるのかも」
「何かって?」
「良くは……分かりません」
 いまひとつ煮え切らない言葉。はっきりと答えられる根拠が無いのか、それとも迂闊には口に出来ないような内容なのか。しかし、こういう冗談を言う性格でもなければ口数も少ない成美が言う以上は、何かを知っているのは間違いない。ただ、その知っている何かを濁しているように思う。そんな口調に俺には聞こえた。
「ただ……」
「ただ?」
「もしかすると、悠里さんは見上さんを何かに利用するつもりかもしれません。だから気をつけて下さい」
「利用って、緒方家のことで?」
「多分」
 けれど、あまり実感は湧かなかった。悠里は表裏の無い性格で責任感も強い。人を利用して策謀をどうこうという性格では無いのだ。いきなり利用されていると言われても、予感も無ければ自覚も無く心当たりすら無い。これは成美の勘違いではないだろうか。そう俺は思い始めた。
 すると、
「今はまだ懐柔なんだと思います。自分を信用させようと言うか、そういう。それに……聞きました、私」
「何を?」
「この間のキャンプでのこと。はい、全部です」
 急に成美は俯いていた顔を上げ、俺と視線を自分から合わせてきた。思わぬ不意打ちに俺の方が目を逸らしそうになったものの、やましい気持ちがあると悟られたくは無く、無理に平静を装い視線を固定する。
「え、あ、いや、あれはね」
「いいえ、大丈夫です。特に騒ぎになったりしなければ、緒方家としても問題は無いでしょうから」
 しかし、成美の目は真剣そのものだった。ある種の凄味さえ感じられる。
 これはあの晩の事を一部始終知っている態度だ。そう俺は思った。しかも明言を避けているのは、問題は無いとは言っても愉快な気持ちではないという事だ。だから俺は、話題をそらしたかった。そこを成美に深く切り込まれると、返す手段も無く攻められるがままに攻められてしまうからだ。
「そのさ、もうちょっと詳しい話はまた今夜聞くよ。ほら、あまり遅いと悠里さんに変に思われるだろうし。それに、ちゃんと落ち着いて話した方が良さそうだから」
 そんな弁明に成美はこくりと黙って頷いた。しかし、その眼差しには依然凄味が残ったままだ。この場限りの話にするつもりはない。そうとも受け取れる。
 事態が俄かに妙な展開を見せ始めた。ようやく落ち着いてきた日常の均衡が、また崩される。そういう感覚だ。
 成美は、悠里が俺を利用するために信頼させようとしている、そう言った。でも、おかしいのではないだろうか? 元々信用のある悠里が、わざわざ俺を信用させるために芝居を打つ必要があるだろうか。
 だが、成美は軽はずみにこんな事を言うような性格ではない。引っ込み思案で口下手だからこそ、本当に大事だと思ったから言ったのだ。言うからには何かしらきな臭さ以上のものを成美は感じているはずだ。
 そして何より一番驚いたのは、キャンプ場でのあのことを成美に話した人間がいるという事だ。順当に考えれば、まずは浩介を疑う。だが、あんな実直な人間があっさりとばらしてしまうのは考え難い。それに知っているのは浩介だけではないのだ。どこか別の誰かが成美に話した線だって考えられる。たとえば、菊本は一番顛末には詳しいだろう。けれど、菊本がわざわざ吹聴するような性格には思えない。なら興味本位のあの中の誰かになるだろう。
 とにかく、一度に色々な事が押し寄せたせいで俺は頭が混乱していた。今後誰にどうするなど、とてもすぐには決められそうになかった。
 しばらくは試験の事だけで頭を悩ませたかったのに。俄かに暗雲が漂ってくる、そんな感覚だった。