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 五月が終わり六月に入る。半ばに差し掛かった頃、白壁島は梅雨入りした。
 中間試験も無事に終わったが、結果も出る前から俺は日々憂鬱で仕方なかった。思うように対策も出来なかったことや、試験当日も予想していたより書けなかったこともある。だが何よりも、自分をそんな状態まで追い込んだ、この状況が何より憂鬱だった。
 気が付くと俺は、片っ端から疑って掛かるようになっていた。
 悠里との付き合いは以前とは何ら変わらないままだったが、頭の片隅では常に悠里の動向を監視するようになった。成美にはキャンプ場での事の情報元も、悠里の何を疑っているのかも、何一つ訊ねてはいない。むしろ、こちらからあえてその話題には触れないようにしている。自分で確かめた方が確実だ。そういう気持ちがあり、それは浩介に対しても同じだった。
 いつしかそんな疑いの目は、それ以外の周囲にまで向けるようになる。今はまだ辛うじて表には出さないようにしているが、いつそれが破れるかも分からない、不安定な状態だ。両親の事故による気持ちの揺らぎは落ち着いているはずだったが、また揺らぎが少しずつ起こり始めている。このままではいずれ、一人で食事も出来なかったあの頃に戻ってしまうのではないか、そんな不安さえあった。
 白壁島の住人との間に距離を感じる。そして日々それは広がっている。得意の口八丁で当たり障りのないように確認していけば、そんなものは晴れるはず。それは分かっていたが、どうしても出来なかった。いつの間にか、物事の結果を悪い方へ考える傾向が強くなっていたからだ。
「試験は芳しくなかったようですね」
 ある晩、水野さんは授業の前にそう指摘した。何か探りを入れているのだろうか。そんな疑いを過ぎらせつつ、それを悟られまいと平静を装う。
「嫌だなあ、まだ結果は出てないですよ」
 そうですね、と水野さんは知っているのが当たり前のように答え、
「今から結果が変わる事はありません。ここのところ表情が優れないのは、出来栄えが思うようにふるわなかった自覚がおありだからでしょう」
 と続けた。
 表情が優れない。そんな指摘をされたのは意外だった。こういう事には目敏い、祖母や悠里にも指摘された事がなかったからだ。
「あれ、水野さんってそんなにボクの事を見ているんですか? いやあ、照れちゃうなあ」
「以前ほど振る舞いに余裕が感じられませんから」
 軽く流そうとしたが、案の定水野さんは自分のペースを崩さず淡々と答える。暗に否定したつもりが、余計に浮き彫りになる結果になってしまった。
 心境の変化にみんなとっくに気がついていて、あえて指摘していないだけだったのだろうか?
 ふとそんな疑問が思い浮かんだ。
「もしかして、祖母ちゃんに当たり障り無いように聞けって言われてたりします?」
「それは申し上げられません」
 即答する水野さんだが、それは実質肯定しているのと同じである。表向き濁しているようで、暗に祖母が心配していると言っているようにも聞こえた。
 ともかく、少なくとも祖母と水野さんは俺の様子がおかしい事に気づいているらしい。そうなると、無理に平静を装うのも馬鹿らしく思えてくる。急に脱力感を覚えた。
「まあ正直言いますとね、何か憂鬱なんです」
「何故ですか? 学校生活には良く馴染んでおられると聞き及びますが」
「そのつもりでいたんですけどね。何となく疎外感もあるんです。やっぱ本土出身だからなのかなあ、とか。思い込みだと信じたいですけどね。確かめるほど勇気も無いし」
「勉学ではなかったのですね」
「いや、それもありますよ。実際点数は物凄い気になってますし。満点とまではいかなくとも、それなりに見られる点数は欲しいです。でも今まで勉強なんてほとんどした事がないのに、急に心変わりしたところで劇的に変わる訳でもないし」
「結果がどうなるのか、それを気にかけるかどうかだけでも、まずは良いかと思います。以前は、結果がどうなろうと気にも留めなかったのでしょう。しかし今は襟を正した、そういう自覚が持てるぐらいの進歩があったとお考えになってはどうでしょうか」
「いきなり満点は無理だから、まずは気構えを、ですか。なるほど、そう考えると少し楽になれそうです。助かります、ホント」
「恐縮です」
 天才でも無い以上は、勉強は積み重ねただけの結果しか出ない。自分はこれから積み上げるのだから、いきなり遥か上を見上げて今の自分を嘆いても仕方の無いことだ。同じ事を自分で自分に言い聞かせると妥協したように思ってしまうが、人から言われるのではまるで心境が変わってくる。今後、それは水野さんのアドバイスということで、自分の胸に留めておくことにする。
「ところで、水野さんも俺のこと心配でした? 単に祖母ちゃんに言われただけだったりします?」
 自分では不意打ちのつもりの質問だった。自分だけでなく、水野さんの私意も知りたいと単純に思ったからである。
 すると水野さんは一呼吸静止し、突然距離を詰めて耳元に囁いてきた。
「仕事には私情を挟まぬよう努めております。ですからそれを、汲んで戴ければ嬉しいです」
 それは、どういうことだろうか?
 遠回しで良く分からないと困惑した俺に、水野さんはそっと目を伏せ意味ありげに会釈する。少なくとも悪いように思っているのではなさそうだ。けれど、何故内緒話のように囁くのだろうか。祖母に聞かれると困るような中身でもなければ、さすがにそこまで地獄耳という訳でもないはずなのだが。
 しかしそれらが説明される訳でもなく、有耶無耶のまま授業が始まる。
「さて、学校でも試験の終わったところですが、こちらも試験を行います。小テストではなく、もっと本格的なものです」
「試験範囲は今までの全部とか?」
「もっと広くお考え下さい。基礎の他に応用や考察等のものも含めるつもりですので」
 中間試験でもあれだけ難しいのだから、水野さんの試験はもっと難解なものに違いない。それを考え表情が引き攣った。水野さんはまるで表情を変えず授業を続ける。淡々とした振る舞いはいつもの事だが、今のように全く別な側面も見せることがあり、おそらく自分の周囲で一番何を考えているのか掴み難い人物だと思う。もう少し人の気持ちが分かるようになれば、こんなに憂鬱になる事もないのに。そう思った。
 その晩の授業もいつも通り、分からない内容が大半で説明を求めるばかりで終わった。
 そして翌日、俺の不安の一つが現実のものになった。中間試験の結果が発表されたのだが、いつも通りに辛うじて追試だけは逃れるどころか、数Bで唯一の追試対象者になってしまった。