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 放課後になると、教室から大半の生徒があっという間にいなくなった。テスト期間も終わり、部活に遊びにと思い切り専念出来る様になったからだろう。少しでも時間を無駄にはしたくないのだ。
 その一方で、俺は開放感を楽しむような気分にはなれなかった。あんな悲惨な結果を目の当たりにしただけでなく、これからは追試と水野さんの試験と両方を勉強しなければならないからだ。当然、遊びがどうとかそういう方向に思考が向くはずもない。今日はこのまま真っ直ぐ帰り、寝るまでとにかく勉強をしよう。そう落ち込んでいた。
「もう、どうしたの? 裕樹君ってば。あんなに教えてあげたのに」
 そそくさと帰り支度をしていると、おもむろに悠里が訊ねてきた。あまり触れて欲しくない所をさも当然のように訊ねてくるのは、いかにも悠里らしい所作である。
「ホントすみません。自分ではもっと出来るつもりだったんだけど。元が悪かったみたいで」
「追試は来週だったかしら。今週はもうずっと勉強になるわね。せっかくデートしてあげようと思ったのに」
 本気か冗談か。悠里はどちらも同じ調子で口にするため判断は付き難かった。それよりも、僅かなりに残った衆目をまるで気にもせずそういう件を口にする事に身が硬直する。既に聞き付け視線を送る者もいる。それがまるで、お前はそんな事をやっている場合かという、批難めいた視線に感じて居た堪れなかった。中でも成美の視線が特に痛かった。緒方家の事もあるからやむを得ない。
 不意に、何故か未だ教室に残っていた菊本と視線が合った。菊本は一時息を飲み、露骨に嘲りの笑みを浮かべて見せつけて来る。菊本は俺とは違って、三年生で二番目という上位の成績である。明確な優劣がつき上下関係を誇示しようとしている事は元より、キャンプの時の当てつけも含まれているように思えるのは俺の勘繰り過ぎだろうか。
「ええ、そんな訳でしばらくは勉強に専念します。今日からもうやらないとまずいかなと思いますんで」
「大丈夫? 追試でも駄目だと、今度は補習、最後は留年になっちゃうよ?」
「まあなんとかやってみます。大体傾向も分かった気がするので」
「何か頼りないわねえ。しょうがない、私が追試まで勉強をもう一回見てあげるわ」
 その言葉に一番強く反応を示したのは、教室を出ようとしていた菊本だった。足を止め、驚きと憎々しげな心境の入り交じった表情でこちらを睨んでくる。表情を抑えられないほどの心境なのだろうが、正直な所それをこちらに向けられても困るものがある。
「いや、それはさすがに悪いですよ。悠里さんだって、部活あるじゃないですか」
「だから少しだけ、図書室あたりでね。それに、裕樹君の成績が悪いままだと私の教え方が悪かった事になっちゃうじゃない」
 そう微笑む悠里に、俺はばつの悪く笑うことしか出来なかった。
 方便、だろうか。なんとなくそう疑ってしまう。けれど、その疑いはすぐに振り払った。こうも親身になって助けてくれるのに一々目的は何だとか疑ってかかるのは、慎重ではなく醜いと思える。成美は嘘を言ったつもりはないけれど、きっと何かを誤認しただけだろう。そう思った。
「ありがとう、悠里さん。本当、ありがとう。もう、大好きって抱き締めてもいいですか?」
「いいわよ」
 誰にでも冗談と分かるように言ったつもりだった。しかし悠里は真顔であっさりそう答え、両手を広げて胸を張り受け入れるポーズを取る。
 こちらはいつもの軽いノリだったのに、あまりにストレートな言動で返され思わず照れてしまった。まさかここで、こういう形で真に受けられるとは思ってもいなかった。
「どうしたの?」
「いや、こんな人前で。やっだーばかーって笑って流すと思ったのに、なんかいきなり本気っぽくなったから」
「もっと女慣れしてると思ったのに、案外可愛いのね。そういう素直な所、好きよ」
「そんな事言ってると俺、本気になりますよ?」
 半分冗談で言う。そしていつものように、状況を把握せず軽口を叩いてしまったと後悔する。背中に注がれる、成美と菊本の視線が強くなるのを感じた。
「嬉しいお話ですこと。でも駄目よ。裕樹君はもっと家柄の良い人と一緒にならなくちゃ」
「家柄ですか。また時代錯誤な単語ですね」
「ま、愛人だったら構わないわよ。裕樹君にその気があればだけど」
「ちょ、愛人って、またまた。からかわないで下さいよ」
「あら。緒方家の次期当主とあろう方に、白壁島の人間が嘘なんかつくと思う?」
 本気で受け取っていいのだろうか?
 返答に困りまごつく俺に、悠里は意味深な笑みを浮かべるだけだった。