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 梅雨の校舎の廊下は湿っていて滑る。直線ならそれは大したことはない。問題は角を曲がる時だ。角度か重心か、それによっては時折驚くほど滑るのだ。
 登校時に廊下の角で危うく転びそうになるという、なんとも不吉な出だしだったその日の追試は、驚くほどあっさり合格点を取る事が出来た。試験の内容は以前とは違うものだったにも関わらず、限りなく満点に近い成績だった。教師が、どうしてこれだけ出来るのに試験ではあんな点数だったのかと首を傾げるほどだった。しかし実際はほとんど自力によるものではなく、悠里が出してくれたヤマがほぼ当たりそれだけを必死で暗記した結果に過ぎない。これでまた一つ借りが出来てしまった。そう俺は思った。
 追試が無事に終わっても、息つく暇も無く次の課題がある。控えているのは水野さんの試験である。実施日は今週末と、ほとんど時間が無かった。放課後になっても遊びに出掛けることも無く、真っ直ぐ帰宅し試験対策に没頭した。追試とは違って悠里の助けを得る事は出来ないため、完全に自力だけでやるしかない。その焦りで、追試の結果などすぐに頭から吹き飛んでいた。
 蓬莱様とは、緒方家の当主に相応しいかどうかを見極める神様である。当然のことだが、神様が実在しているはずもなければ、この小さな箱の中にも入っているのは御神体のようなもののはずである。そんな儀式めいたものだったから、きっと俺はどこかで油断していたのだろう。悪い事をしないで皆に好かれる事をし、勉強もきっちりやっていればいいだろう。そういう甘えが、今回のような失態を招いたのだと俺は思う。緒方家の後継者が他にいないとしても、こんな出来の悪い人間では気持ち良く跡目は譲れるはずも無い。その気持ちが、強く強く俺を締め付け、そしてこれまでに無い行動へと走らせた。
 追試後からは、水野さんの試験対策は学校にもテキストを持ち込み隙さえあれば取り組んでいた。自覚はしていたが、その姿はまるで、追試にも失敗したか、期末試験に向けて今から勉強をしているかのような、これまでの自分とはとても結びつかない余裕の無い姿に見える事だろう。そんな切羽詰った姿に、ある者は興味本位で声をかけてきたり、またある者は只事ではないと距離を置くようになる。突然現れた本土人である自分がようやく溶け込んで来たと思っていただけに、またしても悪い意味でクラスから浮いてきたように思える。成美は休息を取るよう気遣い、悠里は最近付き合いが悪いと不満をこぼす様になった。けれど、辛うじてへらへらと受け答えをするのみで、俺はほとんど右から左へ聞き流していた。それほど、俺は次が大事だと思っていた。
 中間試験の事は祖母も知っている。口には出さないものの、少なからず失望しているだろうと俺は思っている。そして、今度の水野さんの試験の結果も当然祖母の知る所になるだろう。そこで同じ失態を繰り返す訳にはいかなかった。
 結果を出さなければいけない。
 今まで、これほど明確な目的を持って何かに取り組んだ事など無かった。一時的に何かに熱中する事はあっても、それは一週間も長続きしない。細く長く継続してきたものも無ければ、積み重ねてきた技能も無い。何もやった事が無かったからこそ、どうしてもやり遂げたかった。結果を出したいと、強烈に思った。その言葉はもはや情熱など通り越し、己とは無関係に体を動かす呪いのようなものですらある。
 絶対に成し遂げたい。出来なければ死ぬ。そうとしか言い様が無いほど、失敗した時の事など想像する事が出来なかった。
 これが真剣に取り組むという事なのだろう。少しも楽しくなければ苦しく辛い、我慢の連続。でも、耐えなければならない。そう思うというよりも、ただ妄信的に自分へ言い聞かせた。
 だから、自分をうまく操縦出来なくなってしまったのだろう。
 試験当日の土曜日。水野さんには十五時から開始する事を事前に告げられていた。しかし俺は、その日授業が終了しても真っ直ぐ帰宅しなかった。