戻る

 白瀬浜の停留所は、周囲にまるで何も無い殺風景ば場所にあった。降りた先に広がるのは白い砂浜と遥か向こうまで続く広大な海、背後には車の通らない二車線道路とただの原っぱがあるだけである。普段商店街を歩いているとあまり感じないのだが、白壁島は本土ではなく離島であって、都会のようにそこかしこが文明化された土地ではない。自分は今離島に住んでいる事を改めて実感させられる。
 潮の香りと波がぶつかり泡立つ音、遠くから聞こえる海猫の声に聴き入りながら海に向かって歩くと、意外に固い足場に驚き、思わず足元を見下ろした。砂浜と思っていたそこはコンクリートで整備されていて、その上に白い砂が薄く広がっているだけだった。粒がきめ細かくゴミが混じっていない砂浜を踏み締めると小気味よい音が鳴るとテレビで見たが、それを期待していただけに些か残念に思う。
 砂浜と思っていたそこは実際は埋立地か何かのようで、その鋭利な海岸線を右から左へ沿って見渡していくと、調度沖へと伸びる長い防波堤が見えた。防波堤には疎らに釣り人の姿が見受けられる。キャンプの時に見た浩介の竿よりも太く長いものばかりで、何か相当な大物が釣れるのだろうか。そう思った。
 特に目的も無いまま防波堤へ向かい、その先端を目指して歩く。途中で擦れ違う釣り人は一人としてこちらを振り返らなかった。それほど竿先の動きに集中しているのか、緒方の訳有りと知って気付かない振りをしているのか。どちらにしても、あまり人と関わりたく無かった俺には下手に話し掛けられない方が都合が良かった。
 防波堤の先端に近付くに連れて、反対側の防波堤の存在に気が付く。対面の防波堤はこちらとは違い、木々の生い茂った峠の麓から伸びていた。回り込むのが面倒なのか、明らかに釣り人の姿が少ない。
 森と海とが同じ視界に存在する不思議な風景だった。波は長い時間をかけて大陸を削るらしいが、白壁島もそうやって峠の近くまで削られたから、こういった風景が出来上がったのだろうか。そう思った。
 やがて防波堤の先端まで辿り着くと、そこには一人の釣り人の姿があった。何となく一人で物思いに耽りたいと思っていただけに邪魔だと思う。しかし退けと言う訳にもいかない。反対側の防波堤には誰もいないので移ろうかとも考えたが、それではこの釣り人と海を挟んで向かい合う事になってしまう。
 浸るのに調度良い別の場所を探そう。俺は防波堤を引き返そうと足を止める。すると、
「あれれ?」
 突然その釣り人は振り返りこちらの顔を見る。それは見覚えのある顔だった。向こうも覚えがある素振りをしている。面識のある人とこんな所で会うなんて。そう思った。
「森下さん、でしたよね」
「そう言う君は、そよちゃんとこの」
「見上です。見上裕樹」
「嫌だなあ、ちゃんと覚えてるよ? まだボケる歳じゃないからねえ」
 そう歳の割には陽気にけらけらと笑う森下老人。キャンプ場での時となんら変わらない調子である。
「今日は釣りですか?」
「たまに来るんだよね。川釣りもいいけど、海釣りってのもなかなか。川魚は味が淡白だからね、こう脂の乗った魚を刺身にしてね、キューっとやりたい訳だよ」
「それで何か釣れました?」
「いや、それはまだなんだけどね。うん、別に釣れない訳じゃないんだよ」
 そう言っている内に、後ろの方から喚声が上がる。振り返ると一人の釣り人が、黒光りした生きの良い魚を釣り上げていた。ここからでも分かるほどのかなりの大物である。
「ね? 今日は丁度雨上がりだからさ、こういう時って良く釣れるんだよ。特に大物が腹を空かせて泳ぎ回ってるからね」
「ちなみに何を狙ってるんですか?」
「鯛に決まってるよ、鯛。鯛は男の浪漫だもの」
 自分はあんな小物など眼中には無いとばかりに答える森下老人。
 しかし、鯛とはこんな陸近くで釣れる魚なのだろうか? 鯛は日焼けするので深い所にしか棲んでいないという話を聞いたことがある。もしかすると森下老人は、釣りは下手なのかもしれない。そう思った。
「裕樹君、お握りでも食べないかい? 余りものなんだけどねえ、ほら、そこの弁当箱の。いやあ、久しぶりの釣りって事で調子に乗って作り過ぎちゃってさあ。あ、お茶もあるよ」
 こちらが何とも答えるより先に、森下老人は自分で弁当箱を広げ始めた。今日はまだ昼食を食べていないものの、あまり食欲は無い。だが断るのも何なのでありがたく貰う事にする。
 質素な弁当箱とは裏腹に、お握りは普通よりも一回り小振りながら実に種類に富んでいた。梅に昆布、小松菜に鮭、ワカメにツナまである。そして、それらが一目でどれと分かるようにお握りのてっぺんに一つまみ乗せられている。森下老人は意外にまめな性格らしい。
「ところで、今日はどうしたんだい? こんな所に来ちゃって。釣りって様子でもないけど」
「え? ああ、いや、まあ、その……。そう、海が見たくなって。それも急に」
「なるほど。そういうのってあるよね。うん、分かる分かる。海は男の聖地だ」
 どういう理屈かは分からないが、森下老人には独自の世界観があるらしい。だがそれを紐解くのは面倒だ。そう思った。
「学校ではうまくいってないのかい?」
「え? そんな事ないですよ」
「でも、表情が暗いよ? いや、僕も年取って目が霞んで来たからね、見間違いって事もあるからさ、そこは勘弁なんだけどね。でも、なんとなく雰囲気がね、この間とは違うんだよねえ」
「ちょっと中間試験で。追試になっちゃったんですよ、自分で予想してたより出来が悪くて」
「そうか、試験かあ。僕も学生の頃は散々苦しめられたものだよ。未だに憎たらしいったらありゃしない」
 さも可笑しそうに笑う森下老人。本当に苦しめられたのかと些か疑問に思ったものの、遥か昔の事だから今となっては笑い話にしかならないのかもしれない。そう解釈する。
「でもね、勉強なんて人生じゃそんなに重要でもないし、難しいものでもないんだよ? まだ誰もしたことのないような事を研究するならともかく、普通の人は他の誰かがとっくに解明した事を覚えるだけなんだから。そんなに深く悩まなくていいのさあ」
「それじゃあ森下さんは、何が人生で一番難しいと思ってます?」
「女心に決まってるじゃないか。女心の秋の空ってね。僕にとってはそんなものじゃあないよ。もっと複雑怪奇、水が上から下に流れるって分かるけど、煙のように常に形が変化して、そう思っていたら色が変わっていた。そういう感じかなあ。誰かこの不可解な変化について、公式でも編み出してくれないかね。そしたらノーベル平和賞は間違い無しだ」
 流石にそこまで酸いも甘いも知っている訳ではないので理解し難たかったが、何となく言いたい事は伝わって来る。
 森下老人の話は相変わらずいい加減で根拠も何もあったものではない。けれど、温かくて楽しかった。そんな風に思ったのは随分久しぶりの事のように思う。それだけ、見栄張りの笑みがずっと顔に張り付いていたのだろう。
「女心って言えば、どうなの? 裕樹君は」
「えっ?」
「またまた、惚けなくていいよ。君は結構モテたりするタイプでしょ? 僕は自分が残念だったから、尚更そういうのって分かるんだよね」
 はあ、と気の抜けた溜息を漏らす。唐突に随分面倒な話題で切り込んでくるものだ。そう苦笑いする。
「それよりも今はうちの事で手一杯ですよ。当主になるために色々と勉強しなくちゃいけないし、そんなに遊ぶ余裕は無いですって」
「僕が君くらいの時は、四六時中そういう事ばっかり考えてたけどねえ。なんか悠里ちゃんといい成美ちゃんといい、君に気がありそうな子ばかりじゃない。気にもならないの?」
「ならないって言えば嘘になりますけどね。でも、今は緒方家を優先しようかなあって」
「なるほどねえ。でも、少しくらいは遊んだっていいと僕は思うよ? 蓬莱様も鬼じゃないんだから。第一、今からお嫁さんの候補も決めておかないと。緒方家が絶えたらまずいでしょ」
「なんて言うか……この島ってホントにそんなんばかりですね」
「そうかな? 僕は都会の方がもっと奔放だって聞いたぞ」
 笑う森下老人に釣られ、俺も声をこらえきれずに笑った。
 森下老人と話しているとあまりに楽天的過ぎて、自分の悩みなどちっぽけなものに思えてくる。これほど腹の底から笑ったのも久しぶりの事である。そのせいか、何一つ状況は好転していないというのに、急に気持ちに余裕が出てきた気がした。錯覚でも気持ちが続けば行動に反映され、そこから実際に好転するかもしれない。そう思った。