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 森下老人は魚が釣れない事が一番の問題らしい。それは俺にとって目の覚めるような衝撃的な事だった。
 俺は問題を自分で余計に深刻にしていたらしい。それを更に多岐化し、結果的に自分を追い詰めてしまったのだ。要するに、自分の能力以上の事で悩み過ぎて首が回らなくなってしまった、それだけの事だ。
 無駄に悩む事はやめた今、自分が最も優先してやらなければいけない事は何か。それは一刻も早く帰宅する事だと俺は思った。。水野さんの試験は十五時から開始である。もう間に合わないタイミングであるものの、間に合わせる気持ちで俺は急ぎ帰路へ着いた。
 屋敷に到着すると、既に時刻は十七時を回っていた。二時間以上の遅刻である。物事を三十分以上は待てない俺にとってそれは、到底考えられないほどの時間である。果たして水野さんは部屋にいるのだろうか。恐る恐る部屋へ向かうと、そこではドアの前に立つ水野さんの姿があった。二時間以上もそうしていたのだろうか。それを考えると胸が痛んだ。
「あ、あの、すみません……」
 さも申し訳なさそうな口調で姿を表す。水野さんは驚きも何も無く、ただ視線をこちらへ述べてきた。
「本日は十五時からとお伝えしていたはずですが。連絡も取られぬようにして、一体どうされたのですか?」
 水野さんは普段通りの無表情、しかし自分が後ろめたさを持っているためか非難めいた口調に聞こえた。大した用事でもなくサボった事など承知している、そんな様子だった。
「緒方家の当主たる者は皆々の模範とならねばならない事など、既に承知の事と認識しておりましたが。まさかお忘れではないでしょう?」
 改めて言われるまでもなく、蓬莱様の件も含めて自分自身に戒めている事である。ただそれは、俺に息苦しさを感じさせた要因の一つでもあった。今日まで頭痛の種の一つだったものである。しかし今は、気分と心持ちとを入れ換えている。そう自分では思っている。そしてそれが嘘にならぬよう形にする必要がある。そう思った。
「すみませんでした。忘れていた訳でも無いし、急用があった訳でもないです。だから何も言い訳はありません」
 言い難いからと早口にならぬよう口調がゆっくりはっきりするよう心掛けながらそう言い切り、素直に頭を下げる。一番誠意の伝わる謝罪がそれだと俺は思った。
「……」
 水野さんは驚いたのだろうか、一瞬動作が完全に止まった。しかしすぐに気を取り直すと、普段の表情に戻り小さく息をつく。
「そうですか。私は遂に放棄されたのかと愚考しておりました」
「えっ……あ、はい……」
「私は裕樹様を糾弾するような立場ではございませんが、今後も同様の事を為されるのは看過出来ません。私はそよ様より教育係を言い遣っている身です。裕樹様の行為の責任の一端も負います。それだけは重々御承知下さい」
「分かりました。もう二度とやりません」
「では、これから試験を行います。よろしいですね?」
「はい、大丈夫です」
 水野さんにはそろそろ勉強が嫌になり投げ出してしまうと懸念されていたらしい。随分と低く見られていたものだと聊かショックではあったものの、事実投げ出していたのだから反論は出来ない。素直に謝るには謝ったが、それは暗黙の内に一度投げ出してしまったと認めた事にもなってしまった。今後水野さんは、この人間は辛い事があれば突然投げ出す人間だ、と俺の事を見るのだろうか。そう不安に思った。
 試験は二時間で数学Cを中心とした内容だった。特に苦手な教科ではあったものの、昨日一昨日と予習をしていた範囲でもあったため、用紙の前で硬直するような事にはならなかった。
 時間を限界まで使って全ての設問を書き終えると、丁度夕食の時刻だった。水野さんが試験の採点を行うため、その間一旦俺は下で夕食を取る。仕事の早そうな水野さんだからすぐに採点は終わるだろうと、あまり長居はせず手早く夕食を済ませて部屋へ戻って来ると、案の定水野さんは既に採点を終えていた。
 俺を見る視線は非常に厳しかった。それだけで試験の結果が大方予想がついてしまった。
「率直にお答えしますと、非常に残念な結果です。基礎的な部分は問題なく正答されておりますが、それ以外は全く評価出来ません」
「応用が出来ていないって事ですか?」
「その通りです。暗記さえ出来れば良い設問しか正解がありません。これまでの授業で、応用出来るほど理解力が得られなかったという事でしょう。これらは私の指導力不足でもありますが、今後の方針としてはより厳しく見直さねばならなくなりました」
 正答率は三割をようやく越えた程度、定期試験にそのまま当て嵌めればいわゆる赤点のレベルである。
 水野さんの言葉を簡単に言ってしまえば、予想したより出来が悪いのでこれからもっと厳しくする、そんなところだろう。ただでさえ息切れを起こしていた現状が余計に厳しくなるのである。
 本音を言えば、俺はその言葉に少しどころではなく怯んだ。これ以上勉強量など増やしたところで、元から良くもない頭が追いつけるはずもない。そう思うからだ。ましてや、何も好転したものは無いのだから、余計に今日のような事を再発する可能性が高まる。けれど俺は、それこそが甘えではないのか、そう思った。前向きになって何とかしなければ、また同じ事の繰り返しになってしまうのだ。
「分かりました。それでお願いします」
 出来るだけ間を置かずに答える。すると水野さんは再び挙動が一瞬止まった。
「御不満ではないのですか? 今後、裕樹様の行動を更に拘束する事にもなりますが」
「そりゃ不満って言っちゃえば不満だし、正直もっと遊びたいですけどね。でも、自分なりにそれを我慢した結果がこれじゃ、ちょっと面白くないですから。やっぱりその、自分なりにって考え方が良くないと思うんです。だから、もう一度甘え無しで頑張ってみたいです。そうじゃないと、ばあちゃんも不安でならないだろうし」
「その御心は殊勝と思います。ですが、私の指導に対して御意見があれば遠慮されなくても良いのですよ」
「意見出来るほど俺は理解力無いですもん。それに、俺は水野さんを信用してますから。今日の試験だって、少し前の俺だったら問題の意味すら分からなかっただろうし。自分の出来が悪いって事を形で見せられるのは正直キツイですけど、だからじたばたしても仕方ないです。先生が優秀なのはもう明白なんですから、悲観はしてません」
 水野さんの驚きは、勉強量を増やす事に俺が不満を言い出すだろうという予想が外れたためのものだろう。それだけでなく、水野さんの言う所の殊勝な心掛けというものが飛び出して来るなど想定すらしていなかったに違いない。それこそ心外というものだが、評価を低く見られようがまるで気にも留めなかった以前までの生活を考えれば、無理からぬ事なのかもしれない。
 水野さんは一つ溜息をついた。そして珍しく口許を僅かに緩ませ、微苦笑する。
「裕樹様は楽天的な性格と認識しておりましたが、実際はそれ以上のようですね。些か緊張感が足りなさ過ぎます。前向きなのは結構ですが、何よりも実績を示して戴かないと。どうやら当初の目算よりも更に厳しくする必要がありそうです」
「え、まあ……頑張りますよ。ホントに」
 冗談で言っているのか、本気で言っているのか。水野さんの性格なら冗談は有り得ないはずだが、普段ならそんな甘い期待を持たせる余地すら挟ませない。案外冗談なのかも知れない。
 どちらにせよ、今後は一層厳しくなる事に変わりは無い。二度目はもう無いのだから、今度こそ気を引き締めやり遂げなければならないだろう。
 所謂、背水の陣という奴に近い状態である。けれど、今までのような陰鬱な気分には不思議とならなかった。腹が据わったから逆に落ち着いたのかもしれない。そう思った。