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 夏休みに入って最初の海。水着を買った翌々日というすぐの事である。週末は家族連れで海が多少混むため、広々と遊ぶなら平日がいいという理由からのスケジューリングだ。
 海水浴場までは商店街から出ているバスに乗れば数十分で行く事が出来た。島なのだから当然四方が海に囲まれている訳で、海まではさほど遠くはない。その上、ひとえに海と言っても海水浴向けの波の穏やかな場所や海流が複雑で水深の深い釣り向けの場所と、実に様々ある。こと夏の間は遊ぶ場所に困りそうにない。
 本日のメンバーはキャンプの時よりも僅かに多く、バスでも座りきれないほどの人数だった。同じ教室の大半と、中等部からもそれなりの人数が集まっている。狭い島で生徒数が少ない故に、連帯感も強いのだろうか。そう思った。
 海水浴場の目の前にあるバス停で下車、目前に広がる白い砂浜と青い海はまるで映画に出て来そうだと、描いたような光景に危うく安易な感想を漏らしそうになる。天気は朝から雲一つ無い快晴という事もあり、否応にもテンションが上がらずにはいられなかった。
「お、なかなかいいねえ、これ。しかも誰もいないから貸切じゃん」
「ほら、早く着替えましょう。あっちよ」
 誰もいない浜辺を堪能するのも束の間、そう悠里に引っ張られる先には、何軒かの海の家が軒を連ねていた。こちらも客がいないようで、自分達の貸し切り状態である。
 手近の小綺麗な所へ入り、ロッカーを一つ借りて着替える。気持ちが高ぶっているせいで、行動は実に迅速だった。勝手な自分のルールで一番乗りをしなければと、そんな事を考え飛び出していった。
「あれ?」
 しかし、飛び出した先には既に先客がいて、何故かラジオ体操をしていた。目を細めてよく見れば、それは菊本だった。
「ねー、菊本先輩。焼きとうもろこしが食べたいです」
「はあ? 先輩に馴れ馴れしいぞ、見上。食いたきゃ自分で食え」
 取りあえず駆け寄ってそんな口を利いてみる。案の定、菊本は一瞥すらせずに冷たくあしらった。
「いやね、ここですぐ俺が奢ってやるわいって快諾すると、先輩の男振りも上がると思うんですよ」
「乗せやすいって思うだけだろ、特にお前が。仮にも緒方の人間なら人にたかるな」
「いやあ、やっぱ先輩にはかないませんな。ところで、随分着替えるの早いですね。まさか、家からはいてきたとか?」
「そんなの俺の勝手だろう」
 何だ図星か。菊本の憮然とした表情に、俺は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。しかし菊本は目ざとくそれを見つけて舌打ちすると、体操をやめ踵を返した。
「あれ、どこに行くんですか? まだ体操が途中じゃないですか」
「遠泳だ。あの座礁が見えるか? 俺はいつもあそこまで十往復はする。遊びに来たんじゃないんだ」
「またまた。集合場所にも一番乗りって聞きましたけど」
「うるさい、お前はもう俺に構うな。悠里とでもちちくりあってろ」
 最後に菊本は足元の砂を俺に目掛けて蹴り上げると、そのまま足早に不機嫌そうな足取りで海へ入っていった。
「うえっ……あの野郎め」
 目に砂が入った拍子に、口の中にも僅かに吸い込んでしまった。俺は目をつぶったまま口の中に唾を溜めて外へ吐き出す。しかし砂にすっかり水気を座れなかなか口の中の違和感は取れなかった。
 バスの車中でも憮然としていただけに、声をかけてやったのだが。これは幾らなんでも酷い対応である。
 別に菊本そのものには愛着といった感情がある訳でもない。少しばかり気遣ってみたが、それが余計だというのであれば、もう後は知った事ではない。もう放っておく事にしよう。そう思った。
「裕樹様、水持って来ました!」
 すると、目の前辺りからそう声が聞こえてきた。砂で目は開けられなかったが、声は聞き覚えのある浩介のものだった。
「お、サンキュー。助かったよ」
 手探りで受け取ったのは、最近は意外と馴染みの無いペットボトルの形状。蓋を開け天を仰ぐと、そのままペットボトルを目の辺りに傾けて注ぎ込む。しかし、違和感に気づいたのはその直後だった。
「うわっ、なんだよこれ。もしかしてお茶?」
「あ、す、すみません。実はそれしか無くて」
 目の砂を洗えるなら構わないが、せめて一言無いものか。そう不満に思いながらも目の砂は耐え難いので、お茶の匂いを出来るだけ意識しないようにして目を濯いだ。
「なんかお茶臭くなってないかな? まあ海に入れば取れるだろうけど」
「すみません、自分すぐに水を買ってきます」
「いや、もういいよ。しかし、君はおっちょこちょいだねえ」
「本当にすみません。これからは十分気をつけますので、これはどうか……」
「そんな深刻じゃないって。君は重いよ」
 心底申し訳なさそうな表情をする浩介に、流石に苦笑いを隠せなかった。白壁島の住人は世代や人によって緒方家に対するスタンスが違うが、同世代では浩介が一番真面目というか真摯のように思う。やはりああいった環境で育ったからなのだろうか。