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 その日の午前は学校から出されている宿題に手を付けていた。日差しはさほど強くも無く風は涼しいくらいで過ごしやすい天候ではあったが、目的も無く出歩くよりもこの快適さを生かして宿題を多めに終わらせた方が良いと思ったからだ。学校の宿題はそれほど難しくはなく、ただ量だけがある。そのため気持ちが半分どこかへ行っていても手だけを作業的に動かして進める事が出来た。
 水野さんの話では、勉強とは習慣らしい。今まで自ら率先して勉強などした事は無かったものの、水野さんの授業を通して訓練されたのか、勉強に対して集中する事がさほど苦にはならなくなっていた。好きか嫌いかの二択ならば答えは決まっているが、必要に応じて自分に課す事は当然と考えられるようになった。こういうのが成長と言うのだろう。そう思った。
 切りの良い所でペンを置き一息付く。ふと喉が渇き、誰かいないだろうかと部屋の外を覗く。そこで、もしそこにいるのが成美だったらと想像し、思わず部屋の中へ引っ込んでしまった。
 海での一件以来、成美とは顔を合わせ辛かった。今が夏休みで良かったと本当に思う。登下校は必ず成美が付き添い、そこに事情を知らない悠里が加わる事になるからだ。それは根本的な解決にはなっていないが、どうする事が解決なのかも自分で分かっていない。立場上、迂闊な立ち回りは出来ないだけに、尚更好転する立ち回りというものが分からなかった。なんとも歯痒いものだ。
 手持ち無沙汰になり、小休止しようと畳の上に寝転がる。急に集中が途切れてしまった。明らかに気持ちが乱れている。以前よりものらりくらりと立ち回れるようになったと思っていたが、まだそれほど強弁するほどでもないようである。
 こうしていても仕方がない。気持ちを切り替えるべく、俺は自分で麦茶でも取り下へ降りた。
 夏休みとは言っても、緒方家の中は土日とさほど雰囲気は変わらない。祖母と水野さんは仕事で出払い、何人かの使用人は屋敷中で各々の仕事に勤しんでいる。その中を歩いていると、誰もが無言で振り向き慇懃に一礼する。神様を見ているというよりも、主人の孫に敬服している雰囲気である。街中で物珍しそうに見られたり、見知らぬ老人に目の前で両手を合わされたりする事には慣れてきたものの、この息の詰まるような重い態度には未だ順応していない。
 周囲を気にしつつ階段を降りて行く。そして調度一階に降りた時、大廊下から枝分かれする廊下の隅で、ポケットが沢山付いたベストを羽織りクーラーボックスを抱えた、物々しい格好の浩介を見つけた。
「浩介君、釣りに行くの?」
 浩介はすぐにクーラーボックスと竿のケースを足元へ置き、恭しく一礼する。成美と同様、屋敷の中だけで見せる仕草だ。
「はい、本日はお休みが戴けたんで鮎を釣りに」
 そう答え、左腕に付けた緑色の腕章を見せる。そこには許可という文字と期間がプリントされている。どうやら鮎を釣るにはこれが無いといけないらしい。
 白壁島は川魚を釣れる所は意外に多いと、キャンプの時に浩介が言っていた事を思い出す。自分も今までは魚と言えば海のものというイメージが強く、あまり川魚に接点は無い。せいぜい、昔両親が友人の結婚式で持って帰った料理にあったような気がするという程度だ。
「俺も付いてっていいかな? おとなしくしてるからさ」
「ええ、構いません。これから早速向かわれますか?」
「そうだね。ちょっとだけ待ってて。着替えてくるから外に出ててよ」
 俺は浩介を玄関で待たせ、降りてきたばかりの自分の部屋へと急ぎ引き返した。広げたままのテキストを片付けて手早く着替えると、携帯と財布をポケットに突っ込み玄関へ降りた。
 浩介の案内で早速今日の釣り場へと向かう。場所はあのキャンプ場と大体同じ方向で、少し山側に登った地点になる。同じあの路線バスで更に停留所を三つ過ぎた所に、石を投げて届くほどの幅のある河川が流れていた。他に釣り人も何人かいて、既に釣り糸を垂らしている。これだけいるという事は、やはり釣れる場所なのだろう。そう思った。
「裕樹様、この辺りは石が大きいので足元には気をつけて下さい」
「結構上流なの?」
「いえ、上の方の石が脆いので、よく大きな石が崩れて流れて来ているんです」
 鮎には縄張りというものがあるらしく、掠め取るような事にならないように他の釣り人にそれを配慮しなければならないそうだ。浩介は先客から離れ更に上流の方へと移動する。川の流れもキャンプの時に来た川よりずっと早く、足場も石が大きくあまり良くない。底の薄いスニーカーではなるべく平たい石を選んで歩かなければならない。浩介は釣り用らしい厚底のゴム長を履いていて、見た目はともかく岩場は自分よりもずっと歩き易そうだった。それ以前に、俺と浩介とでは徐々に体力差も出始めてくる。二つもハンデを背負って歩いているような気分だった。
「裕樹様、大丈夫ですか?」
「おう、平気だよ。余裕余裕」
 浩介に気遣われ、俺はわざと平気な顔で答えた。成美よりも年下の同性には尚更弱音は吐けない。そんな意地があったからだ。