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 周囲に誰もいない地点まで上がり、ようやく浩介は釣りのポイントを定めた。体力が尽きる前に決まって良かった。そう俺はこっそり溜め息をついた。
 早速浩介は釣竿をケースから取り出し、道具をまとめたクーラーボックスを開けて荷物を並べる。釣りの用意は良く分からないが、これから仕掛けとかを付けるのだろう。そんな事を考えながら、来る途中のコンビニで買ったお茶を袋から取り出して渇きを癒す。
 浩介は竿を置くと今度は川淵に屈み込み右手を突っ込んで何やら掻き回しはじめた。手を洗っているのだろうかと思っていると、やがてそこから一匹の魚を掴み上げた。
「え、もう釣ったの? っていうか、素手?」
「いえ、これは種鮎です。先に鮎を釣った人が帰り際に石で囲いを作っておいて、そこに一匹離すんですよ」
「なんでそんな事を?」
「鮎は自分の縄張りに別の鮎が入ってくると、すぐにケンカを売るんです。それで近づいてきた所を釣る訳でして。それに、ここではこれぐらいのが釣れる、っていう目安にもなります」
 鮎釣りとは、針に餌を付けてそれを飲ませるという俺の知っている釣りと随分方法が異なるようである。
 面白い釣りもあるものだ。そうしている内に浩介は種鮎を糸の先に付けると、素早く川の中へ放った。
「鮎って結構釣れるものなの?」
「こればかりは何とも。やはり運次第ですから。幾ら技術があっても、魚そのものが泳いで来ないんじゃどうやっても釣れませんから」
「まあ、そうだよなあ。そういえば、森下さんっているじゃん? キャンプ場の。あの人って釣りはどうなの? なんかよくやってるらしいけど」
「さあ……自分の知る限りですと、大物を釣ったという話は聞いた事はないですね。釣り仲間でも情報共有は良くしていますし」
「ふうん、やっぱあんまりうまくないんだな」
 普段仕事で忙しい浩介よりも、暇なキャンプ場管理人の森下老人の方が下手という事は、やはり釣りには向き不向きがあるのかもしれない。釣りとはのんびりと時間を過ごす事に長けた老人こそ得意だという偏見があるのだが、何事も適性というものに左右されるようだ。そう思った。
 今日の予報では、日中は三十度近くまで上がるらしい。この連日の暑さにはもう大分慣れて来ているが、やはり日差しが強いのは体にこたえるものがある。河原の石も素手では触れないほど熱せられ、迂闊に腰を下ろす事も出来なかった。石の熱は屈むほど熱い空気として伝わってくるため、むしろ立っているほうが涼しく感じた。特に川の前ではそれが顕著で、風が少しでも吹くだけで汗が引くほどの涼が得られた。昔の人は暑い時はこうして川で涼んでいたのだろうか。そう思った。
「今日はどう? 釣れそう?」
「それなりに影が見えるんで、全く釣れない事はなさそうですよ。ほら、そこ今走ってます」
 浩介が指差す先を、俺は目を細めて見つめる。日差しが強く、それを反射する水面は眩しくて長く見ることは出来なかった。そもそも鮎の形も泳ぎ方も良く分からない俺は、鮎の魚影を見つける事は出来なかった。
 魚は音に敏感らしく、石を投げる事も出来ない。俺はじっと水面を見つめながら鮎の姿を探し続けた。眩しさにも慣れてくると時折素早く通り過ぎる黒い影を見つける事は出来たが、どれもすぐに見失った。しかし浩介はそれをきちんと追えているらしく、時折それに合わせて竿を構え直したりしている。
「あの、裕樹様。もしかして疲れていたりしますか?」
 ふと浩介が竿を構えたままそんな事を訊ねて来た。
「ん? そんな事ないよ。たいした距離歩いてないじゃん」
「いえ、そうではなくて……その、最近といいますか、ここ一週間ぐらい、ですか……」
 今々の事ではなく、ここ何日かを通しての印象らしい。下手な強がりが裏目になったと俺は苦笑いする。だが、浩介に問われた事を改めて思い返し、それが全く身に覚えが無い事だと俺は思った。中間試験の頃ならともかく、ここ最近はそんな浮き沈みなどするような覚えは無いからだ。すると導き出されるのは、
「それは要するにあれだな、遠回しに、何か悩んでるんじゃない? って言いたいのかな?」
「あ……何て言うか、お節介ですよね、やっぱり」
「そうでも無いよ。ほら、俺って自分語りも大好きだからさ、訊かれるのって好きなんだよね」
「はあ……」
 浩介は良く分からないと言いたげな表情で小首を傾げる。やはり成美よりも真面目過ぎるせいでこういう会話では疎通し難いらしい。
「悩み、あるよ。こう言うと何だけど、俺って結構女の子にはモテるからさ。どうしても悩みは尽きないんだよね。みんな平等にってなかなか難しいからさ。いっそ、ちょっと俺は放っておいてくれって感じさ」
「それは仕方ありませんよ。裕樹様は緒方家の次期当主なんですから。玉の輿を狙おうと思う人はいても当然だと思います」
「あっ、今何気に酷いこと言ったな。俺なんて肩書きなきゃ誰も相手にしないよって?」
「いえ!? そ、そんな事では!」
「ははっ、冗談だよ。君は面白いねえ」
 血相を変える浩介に思わず噴出してしまう。どうしてこんな事でもいちいち真に受けてしまうのか、俺には不思議でならなかった。多分それが、生まれついて真面目な人間と、生まれついて不真面目な人間との溝なのだと思う。こちらは冗談のつもりでも、まさかそんな冗談を言うはずがないと考えているから、こういう事になるのだろう。持論として、そんな事で顔色を変えていてはとても長生き出来そうにないと思うのだが。
「あ、来た!」
 突如、嬌声と共に竿を振り上げる浩介。水飛沫を上げながら飛び出した糸の先には、青黒く光る背の魚が激しくのたうちまわっていた。糸の先が偶然にも自分の方へ流れて来て、反射的にのたうつそれを受け止める。
「うおっ、すげ」
 初めて手に取る生きた鮎は、手のひらに乗るほど小柄だというのに驚くほどの躍動感があった。取り落とさぬようしっかり指で押さえるのだけれど、それを跳ね除けようと何度も何度ものた打ち回って一向に静まる気配が無い。なんて生命力に溢れた魚なんだろうか。そう感嘆する俺は手の中の鮎から目が離せなかった。
「すみません、今針を取りますね」
「ああ、うん。ところでさ、鮎ってどうやって食べるの? 刺身?」
「いえ、塩焼きが普通ですけど。試しに食べてみますか? もう昼時ですから」