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 その後、立て続けに何匹か釣り上げた鮎をその場で食べる事になった。包丁とまな板が無ければ料理は出来ないのではないかと思っていたが、鮎を食べるのはそれほど難しい事ではないそうだ。
 作業を分担し、俺は燃やすための枯れ木を集めた。川原から少し外れるとそこはもう山道で、その両端には幾らでも手頃な枝が転がっていたためさほど時間はかからなかった。焚き火は何かコツがあるらしく、作りは浩介に任せた。携帯用の炭やライターも予め用意はしていたが、それはあくまで火力や手間のためで、一番重要なのは火を広げ過ぎない事、火力が散漫になるのを防ぎ事故の危険も減らす事が出来るそうだ。
 焚き火の準備が整うと、次は鮎の調理に取り掛かる。もっとも、俺は何も出来る事が無いので全て浩介任せになる。
 浩介は鮎のエラの所に携帯ナイフを突き刺した。そこを少しばかり切り込むと、今度は尾の方にも切れ目を入れた。そのまま背を折り曲げ軽く絞り上げると、血がどくどくと流れ落ちた。鼻を突くような臭いに思わず俺は眉をひそめた。
「うわ……なんか凄い臭いだな」
「こうやって血抜きをしないと、食べられないですから。それにすぐに悪くなって味も落ちます」
「鮎の血ってマズイんだ?」
「と言うよりも、魚は大抵は血抜きしてから捌きますよ。魚の血は生臭いので、すぐに抜かないと刺身にしても味が酷くなるんです」
 割と基本的な事も俺は知らないらしい。だが、これで一つ勉強になった。魚は釣ったらすぐに血を抜かないと不味くなる。いつかどこかでひからかせるだろう。
 一通り血抜きが終わると、浩介は竹串を取り出して鮎に刺していった。丸焼きだと口から刺してお尻の辺りから突き抜けるものだと思っていたが、浩介はエラの辺りを斜めに貫通させ、そしてその先を更に腹を斜めに貫通させる、鮎がややたわんだような姿勢で固定される刺し方をした。普通は柔らかい所ではなく、固い所に串は刺すものらしい。柔らかい所では、焼いている時に身が崩れる事があるそうだ。
 最後に鮎に満遍なく塩を振り、焚火を囲むように立てて並べる。まずはこのまましばらく焼き続けるそうだ。火力にもよるが、大体三十分かからない程度だという。やはりガスコンロの方が早そうだ。そう思った。
「何か炭といい串といい、準備がいいね」
「自分、良くこうやって川で焼いて食べることがありますから」
「いいね、そういうの。ピクニック感覚でさ」
 大方、食料の現地調達といった所だろうか。あらかじめコンビニで買って持って行くのが普通の自分としては、なんて行動力があるのだろうと一種の羨望すらあった。
 やがて表面のぬめっとした光沢が無くなり、火が通った艶の無い加減になると、浩介は新聞紙を一枚広げて川で濡らすと、突き立てた鮎の周りを囲むようにして覆った。
「これは何?」
「中まで熱が通るようにするんです。こうすると熱がこもって蒸し焼きのようになります。目玉焼きを焼く時に蓋をするの同じですよ」
 ふと子供の頃にテレビで聞いた、遠赤外線という単語を思い出した。良くは分からないが、それは中まで浸透しやすい熱線でグリルだと魚は中までしっかり火が通り、こたつだとすぐに手足が温まるというものだ。焚火ではそういう事が出来ないから、そのための工夫なのだろう。
「そろそろ良さそうです。では、どうぞ」
 濡れた新聞紙が焦げ始めた頃、浩介は新聞紙を取り除き鮎の串を一つ取って差し出して来た。初めての塩焼きに思わず見入り、その匂いを確かめる。周囲には新聞紙の焦げ臭さが漂っていたが、それを物ともしないほどの香ばしさがはっきりと感じられた。表面は秋刀魚にも似た皮と塩の焦げがあったが、香りは明らかに別である。川魚だからなのだろうか。ともかく、俺は誘われるように恐る恐る背中にかぶりついた。
「お、うまい!」
 思わず漏れた第一声はそれだった。とにかくそれが正直な感想だった。初めは白身で淡泊な風味だったのが、徐々に塩加減と白身の脂らしい味が広がり、体験したことの無い味に変わっていった。基本的に肉と魚とでは肉の方が好きで、魚はせいぜい刺身ぐらいしか食べない方なのだが、この焼き鮎ばかりは明らかに別格である。背だけでなくはらわたの苦味すらもうまいと思えた。夢中でかぶりついた俺はあっという間に一匹を頭と尻尾と骨だけにしてしまった。
「ホント、これおいしいな。もう一本貰っていい?」
「どうぞ。まだまだありますから」
 浩介の言葉に甘え、それから二匹も続けて平らげた。こんなに食べる事に夢中になったのは、随分久しぶりの事である。腹も舌も満足して、そこでふと自分が随分と意地汚くがっついたのではないかと気が付いた。浩介はまだ一匹目をのんびりと食べている最中である。あのように余裕を持って、もっと味わって食べるべきだった。そう後悔しながら口元を拭った。
「ところでさ、成美ちゃんって最近どう?」
「どうと言いますと?」
「いや、元気かなあって」
「いつもと変わりませんよ。どうかしました?」
「うん、ちょっとね」
 唐突に切り出した話題だったが、浩介は不思議そうに小首を傾げるだけだった。こちらの意図に気づいていないのと、この唐突さをさほど不自然に思っていない様子である。浩介のこういう鈍感さはかえって都合が良い。そう心の中で一安心する。
「キャンプの後なんだけど、成美ちゃんにちょっと言われたことがあってさ。どっかで見張られてたのかなあ、って思って」
「と、言いますと……?」
「大した事じゃないよ。悠里さんと遊んだ事で釘刺されちゃっただけ。ただ、成美ちゃん休んでたはずなのになあと。それが疑問なんだな」
 核心部分をほのめかしつつ、惚けようと思えば幾らでも惚けられる範囲で遠回しに突付く。何も包み隠さず喋らせようという意図はさらさらなかった。ただ、何かしら反応が見られればそれで良いという感じである。しかし浩介は、あまり予想していなかった態度に出た。
「申し訳ありません! それ、自分のせいです!」
 突然浩介は勢い良くその場に両膝をついて深々と頭を下げた。思わぬ行動に、腹ごなしに飲んでいたお茶でむせてしまう。普段から真面目な言動の目立つ浩介だったが、ここに来ていきなり見事な土下座をするとは思ってもいなかったからだ。
「成美さんは関係無いんです。自分が勝手にやった事なので、全部自分に責任があるんです。だから成美さんは責めないで下さい」
「あ、その、浩介君? とにかく、それはやめて立ってよ。うん。ちょっと怖いなー、今にも腹切りそうだよ、君」
「切れば許して戴けるのでしょうか?」
「ばっ、違うって! とにかく、別に怒るとかじゃないから、そういうのはやめてくれないかってこと」
 恐ろしい事を口にするものだ。そう俺は冷や汗をかいた。今時、切腹など時代錯誤も甚だしい引責などやる者はいない。せいぜい冗談で口走る程度である。しかし、浩介はあまりに深刻で本当にやってしまいかねない凄味があった。俺は随分遠回しにソフトな物言いをしたつもりだったが、まさかそんな事を口走らせるほど追い詰めてしまうとは。白壁島も緒方家も特殊な風習が根付いた環境だが、そこで育った上に生まれ付いての真面目な性分がこういう思考をさせるのだろうか。頑固で真面目なのは菊本と同じだが、向こうは高圧的なのに対し浩介は非常に悲観的である。言い方一つで本当に死んでしまうのではないか。そう恐ろしく思った。
「ほら、立って土を払って。なんで君はそんな重いのかな。別に大した事じゃないんだから、こんなの。俺がちょっと羽目外して、お目こぼしして貰おうとして失敗しただけなのに」
「ですが、本当に申し訳ない事をしたと思っています。自分のせいで裕樹様の気分を害した訳ですから」
「うん、だからね……。別に害するとかそんなのじゃないから」
 しかし、本当に浩介が成美に告げ口していたなんて。
 浩介は口の堅い人間だと勝手なイメージを俺は持っていた。だから浩介の白状した事は少しショックで、嘘でも聞きたくなかった言葉だった。裏切られたという気持ちが一番近いのだろうか。でも、だからと言って浩介には憎いとか悪い感情は持たなかった。それだけ、次の当主として見られている、その表れだと実感したからだ。誰もが俺を見上裕樹という個人では無く、次期当主としてみているのではないか。そんな事を考えると、これまでみんなが俺にかけてくれた言葉や日常の繋がりは、全て当主としての俺に向けたものではないのか。そう思った。