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 最近溜め息をつきがちだと、突然と水野さんに指摘された。以前よりも黙って考え込む時間が長くなり、その都度決まってついているそうだ。考え込む事も溜め息をつく事も自覚が無かったものの、指摘を受けてもさほど驚きは無かった。
 何故溜め息を繰り返すようになったのか、その理由に心当たりはあった。週明けの月曜日、白壁島では商店街主催の夏祭りが行われる。前々からみんなで繰り出して遊ぼうと計画していたのだけれど、そこに問題が生じた。祖母は、緒方家の人間がそんなものに関わってはいけない、そう言うのである。
 おおよそ誠意のある人間なら、約束は先に結んだ方を優先するとか順位は付けず、そもそも守れない約束は初めから結ばない。みんなで祭に繰り出す、祭には関わらない、この二つの約束が両立出来るはずもなく、不誠実な俺はどちらかを反古にしなくてはいけなくなってしまった。その両天秤こそが溜め息の理由である。
 何かうまい手は無いものか。こういう時にとんちの名人はどんな言い逃れを考えるのか、それにあやかりたい心境だった。
 具体策も見出だせないまま、結局ずるずると祭の前日までそれは引きずってしまった。これは良くない事である。どちらかに断りの連絡を入れるにしては、直前というのは非常に不誠実さを感じさせる最悪のタイミングだからだ。
 そんな八方塞がりの状況下、その日の授業の前に水野さんは唐突にそれを切り出してきた。
「裕樹様、明日のお休みは取り消します」
 俺は何と返答したら良いのか分からず、思わず小首を傾げてしまった。以前からこの日は遊びに行くからと了解を得ていたはずなのだが、それを一方的に反古にする言われは無かったからだ。しかも、あらかじめスケジュールを分刻みで立ててそれを厳守する水野さんが、である。あまりにらしからぬ発言に、俺は訝しげに眉をひそめた。
「それは、やっぱりいつも通り授業するという事ですか?」
 個人的な感情を十分に込めて、そう問い返した。
 なんとも複雑な心境だった。授業で祭に行けなくなったと角の立ち難い理由が出来たものの、結局はそれを理由に片方を選択した事に変わり無いからだ。
 それよりも疑問なのは水野さんである。果たして水野さんの意図はどういったものなのだろうか。そう不安がっていると、水野さんは珍しく唇の端に笑みを浮かべて答えた。
「そうですね。ただし、形だけです」
「形だけ?」
「裕樹様には以前、ご褒美のようなものを差し上げるお約束でした。ですから、私が明日は体裁を整えて差し上げようと思います」
 明日は形だけの授業を取る。何故そういう事をするのか、俺はすぐに理解出来なかった。勘の悪い自分を恥ずかしく思いながら、それはこういう事ですよね、と明確な言葉を求めるように水野さんを見上げる。水野さんはそんな俺の視線を受けて、更に口元を大きく綻ばせた。
「明日は裕樹様には御予定が御有りでしょう。それを私が微力ながらサポートさせて戴こうと、そういう事です」
「えっと、なるほど……。アリバイ工作って事ですよね?」
「こういった事は、何事も暗黙の了解としておくのが今後とも宜しいかと」
 やはりそうですか、と俺はようやく納得して大きく頷いた。
 これは意外な朗報、嬉しい誤算である。まさか水野さんが祖母の目を盗む事を手伝ってくれるなど思いもよらなかった事である。個人的には、水野さんは機械的に祖母の言いつけにただ従うものだと思っていた。それだけに、祖母の信用もあるはずの水野さんが手伝ってくれるという事は明日の予定については磐石となったも同然である。
「蛇足とは思いますが、くれぐれも他言無きようにお願いいたします。私の立場というものがありますので」
「大丈夫です、まさか水野さんを裏切るような事はしませんよ。あ、でも、明日のメンバーには成美ちゃんと浩介君も入ってるから、その二人にはバレると思うけど」
「二人が他言しないのであれば構いませんよ」
 成美も浩介も、緒方家の使用人である訳だから、一番命令を優先するのは祖母になる。けれど、日頃の付き合いがより多いのは自分の方で、二人とも全く融通が利かないという訳でもない。俺の行動に口うるさい成美も、それはあくまで体面のことに関してだから、これぐらいは理解を示すはずである。浩介も、成美にはどうも隠し事が出来ないようではあるが、祖母にまで漏らす事はさすがに無いだろう。
「では、注意事項を幾つか申し上げますので必ず御記憶下さい。明日は夕食後に私がお迎えに上がりますので、そのまま勝手口へ回って下さい。お戻りになる時は、あらかじめ私の方へ一報お伝え下さい。状況的に問題が無いようでしたら折り返します。それと、外での行動は不特定多数の人間が見ております。くれぐれも目立つような行動は避けて下さい。思わぬ所からそよ様のお耳に入るやもしれませんので」
「はい、分かりました。でも俺、普段から目立たないように派手な事はしてませんから。それに、少しでも変な事をしようとするとすぐに成美ちゃんが怒ってくれるから、心配はありませんよ」
「私が申し上げているのは、そういった行動を初めから慎むようにという事なのですが」
「っと、それもそうですね。はい、どういう時に怒られるかは分かってますから。今回は大丈夫です、本当に」
 その大丈夫をどこまで信用して良いものやら。そう言いたげに水野さんは綻ばせていた口元を酸っぱく結んだ。やはり水野さんには軽率で不安に映るのだろう。結局のところは日々遊び呆けている学生でしかない訳だから、その懸念も仕方が無いのかもしれない。
「最後に、これはあくまで私個人の独断によるものですから、万が一不測の事態が発生した場合は必ず私の指示に従って下さい。私が中止としましたら中止、途中で帰宅としましたら直ちに帰宅して下さい。宜しいですね」
「はい、必ずそうします。ところで、水野さんは何かお土産でリクエストありますか?」
 水野さんは一瞬息を飲み目を僅かに大きく見開く。そのまま続けて、初めて見るような深く大きな溜息をついた。
「裕樹様、本日の授業も予定を変更いたします」
「急に何ですか?」
「本日は明日の分の授業も実施させて戴きます。そうでなければ後々差異が出てしまいますから」
 宣言する水野さんの表情は既に普段の無表情に戻っていた。むしろ、普段よりも冷たさすら感じる。どうやら俺は、余計な事を言って怒らせてしまったらしい。
 自重すると言った直後にこれでは、確かに信用もされないだろう。そう俺は反省した。